時間管理はなぜ失敗するか、時刻は人の上にあり、上善は水の如し

「時間管理」「タイムマネジメント」の技術というのはたくさんありますが、私の経験ではほとんどが失敗します。いったい、どうすりゃいいんでしょうか。今日は、自分の心の傾きに気づき、水のように流れることが最善なのでは? ということについて考えます。

ある人、時刻を知らんためにとて、自鳴鐘とけいを求めんとするを、その妻、これをとどめていひけるは、「明け暮れにかくる世話のみにあらず、くるひたる折からにはそのひまを費やし、自鳴鐘のためにかへりて時を失ふこと多からん。やめ給へ。」といへば、「さあらば鶏を飼ふべし。」といふに、その妻、またとどめていひけるは、「時刻は人のうへにあり。潮の満ちきもこれとおなじかるべし。自鳴鐘、鶏をたよりとするは、勤めに怠る者のいたすことなり。」と、夫をいさめ、つひに鶏をも飼わずなりにき。

柳沢淇園『雲萍雑誌』より。

柳沢やなぎさわ淇園きえんの『雲萍うんぴょう雑誌ざっし』からの引用です。『雲萍雑誌』、っつっても、たぶんほとんどの方は「は?」って感じだと思いますけど。今、ためしにGoogleで"柳沢淇園 雲萍雑誌"を検索してみたら、32件しかヒットしませんでした。こんなマイナーな書物からネタふりするなど正気の沙汰ではありませんが、しかし、なかなか考えさせられる小話です。

ここで話題にされていることは、「時間を知るにはどうしたいいか?」という問題です。しかし、私にはもう少し深く、「時間管理」あるいは「タイムマネジメント」についての非常に示唆に富む文章に思えます。

話はまず、「ある人」が時間を知るために時計を購入しようとするところから始まります。ところが、「妻」がそれに反対いたします。いわく、時計のメンテナンスのためにかえって時を失う、というのですね。

確かに、江戸時代は「不定時法」と呼ばれる、季節によって「一刻」の長さが異なる時法を用いていました。そんなこともあって、時計の調整はけっこう大変だったのでしょう。なんだか猫を飼うのに反対するお母さんのようですな。どうせアタシが面倒みることになるんだから!

しかし、この言葉、タイムマネジメントに対してのものだとみなした場合、大変に鋭い指摘かと思います。

タイムマネジメントというのは、現代人にとって必須の技術と言えます。私も、けっこうこの手のノウハウものが好きなので、いろいろ手を出しました。このエントリを書くにあたって、Googleで「時間管理」「タイムマネジメント」を検索して出てくる上位50ページにすべて目を通しましたが、掲載されているノウハウはすべて一度試したものがあるものばかりでした。

いわく、目標を明確にせよ、作業のリストを作れ、優先順位を決めろ、時間を見積もれ、〆切を決めろ、タイマーで時間を計れ、進捗を可視化せよ、すぐに取りかかれ、ご褒美を設けろ……。

この手のノウハウというのは、実行すると麻薬のように効くのですが、すぐに効果がなくなります。いや、効果がなくなる、というのはあまり正確ではありません。すぐに使わなくなるのです。やれば効果があることは分かっているのですが……。実に不思議です。

例えば、To-Doリスト(やるべき仕事のリスト)を作る、というのは、タイムマネジメントの基本中の基本です。私のPCも、常にTo-Doリストが立ち上がっているようになっています。PCを起動すると、スクリプトが勝手にネットからTo-Doリストをダウンロードして、職場と自宅で同期をとってくれます。

ところが、ここまで環境を整えたTo-Doリストでさえ、更新が面倒になってきてサボることがあります。だいたい世の中にはTo-Doリストなど作らずに仕事をしている人もたくさんいるわけで、なくてもなんとかなっちゃいますから。

そういう怠惰な私から見ると、この「妻」の指摘は、実に的確です。要するに、メンテナンスコストが高いタイムマネジメントシステムは使えない、と言っているわけです。ISO9001(品質マネジメントの国際規格)を取得したら書類づくりばっかで仕事の能率が落ちたみたいな話です。

ネット上にある時間管理の「ノウハウ」を見ると、お前ほんとにそんなこといちいちやってんのか?と思うような煩雑なメソッドも散見されます。作業を分割して書き出し、時間を見積もり、実行結果を記録し、それを反省し……。いや、もちろん、「やれば効果がある」ということは知ってるんですよ。でも、やれないもんはやれないんです。だって面倒なんだもん。

人間、正しいことだからやれる、ってもんでもないんです。

だいたい、前にもどっかのエントリで似たようなことを書きましたが、「タイムマネジメント」と呼ばれる手法がかくも多彩である、ということが、タイムマネジメントは役に立たない、ということを証明しています。本当に役に立つものにはたくさんのヴァリエーションは要りません。

例えば、時計は「時刻を知る」という点において極めて役に立ちますが、それゆえに、1から12の数字の配置のしかたや、長針・短針・秒針の仕様は、全世界でほとんど同一なのです。一方で、時計の「デザイン」というものはまるっきり役に立たぬがゆえに、数字の形状や色彩などは時計ごとにバラバラで個性的なのです。

とはいえ、タイムマネジメントなど面倒くさくてやってられん、という結論を出すだけではさすがに興がないというものでしょう。雲萍雑誌はまだ続いております。続きを読んでみることにしましょう。

「妻」に反対された「夫」は、それではニワトリを飼おうと言い出します。ここで、ニワトリも世話すんのは面倒だよー、と同じ反論をくり返すのは楽しくありません。夫は「さあらば鶏を飼ふべし」と言ったのです。「さあらば」というのは「それならば」ということですから、「夫」はニワトリならメンテの手間が要らない、という前提で話をしているはずです。ニワトリなら、文句ねーだろ、と。

それに対する「妻」の答えは、こうです。「時刻は人のうへにあり。潮の満ち干きもこれとおなじかるべし。」

……これは何を言っているのでしょうか? 意味がよく分かりません。ちょっと、腰をすえて考えましょう。

まず「夫」は時刻を知ろうとして、時計とかニワトリとかを買うつもりでいたのでした。「妻」はそれに対して、「時刻は人の上にある」と答えています。私は、この言葉を、時計とかニワトリとか外界の何かによって時間をコントロールされるのではなく、「人」すなわち自分自身の内発的な何かによって時間をコントロールすべきである、という主張だと受け取ります。

私は、タイムマネジメントに関するさまざまなノウハウを試しました。それらは、ことごとく「最初だけ」うまくいきました。なぜなのでしょうか?

それは、最初だけは「自分の意思で」やり始めたからに他なりません。ところが、それがいったん仕事の流れの中に採用されると、あっという間に義務に変化します。たとえ採用したのが過去の「自分」であっても、やはり「他人が勝手に決めたこと」になってしまうのです。こうして、すべてのタイムマネジメントシステムは崩壊します。

これを防ぐには、時刻を「人の上」に取り戻さなくてはなりません。外から押しつけられてやるのではなく、内発的な動機によって動くことです。やりたいようにやれ、ということです。簡単なはずです。

まず、そもそも、その仕事を「やるべきだ」と思った時点で、「やりたい」と思う理由がどこかにあったはずです。お給料をもらえるとか、叱られないですむとか、そういう卑小な話でもかまいません。ならば、この「やりたい」という気持ちにそって、素直に動けばいいはずです。ところが、これが全然簡単なことではないから困るのです。

なぜだか分からないですが、とにかくできないのです。自分とって得だ、やったほうが絶対にいい、と分かっていることですら、なぜかやれない。そういうことが、私にはよくあります。自ら幸福を否定するような行動をとるのです。まったく意味不明です。

こいつは人間の実に不条理なのですが、このことについて私が思うのは、我々は、自分の心の中の感情の動きを、実はちゃんと意識できていないのではないか、ということです。これは、「感情」に限定される話ではないと思います。人間は、自分が「感じていること」のほとんどを、意識から捨てているのです。

例えば、今こうしてこの文章を書く手をふと止めて、右足の裏の感覚に集中してみます。右足の裏です。床の感覚、足の重さ、指1本1本の形、そういうものをただ感じます。私は足がやや痺れていることに気づきます。姿勢が固まっていたために、血行が悪くなっていたのですが、しかし、脳はそういう情報を切り落としていたのでした。

もう一例。私は今日一日中、呼吸をしていたはずなのですが、それを「感じた」ことは一度もありませんでした。今、試しに、呼吸を感じてみます。鼻の穴を過ぎていく空気の感覚を、ノドを降りていく空気の流れを、肺に空気がたまる感覚を、いちいち感じてみる。すると、初めて、そういう感覚が「あった」ことに気づくのです。

これと同じように、たぶん我々は、心の中にある、何かを「やりたい」と思う気持ちに気づくことができない。確かにそこにあるのだけれど、感じることができない。それに気づくことができれば、その方向にむかって、自然に体の力を抜けばいいのに。

もっとも、現実には、他人の希望にそって行動する必要がかなりあるのではないか、外部の何かによって行動が決められることばかりではないか、そんな気もします。

ここでヒントになるのが「潮の満ち干き」という言葉です。

潮の満ち引きは何で起きるのでしょうか? それは月の重力によって起きます。すなわち、海の水は月という外部の力によって、完全にふりまわされているわけです。なんてことでしょうか。話が違うじゃないですか! 結局、人間は、外の世界の何かによって自分をコントロールされている、ということでしょうか。

しかし、確かに、時計によって行動を束縛されることと、月によって海水が満ちたり引いたりすることには、決定的な違いがあります。それは、水というものが、ただ、あるがままにそこにある、ということです。

水というのは、満ちよう引こうとして動いているわけではありません。ただ、重力にしたがい、最も自然な形をとろうとしているだけです。どこにも力が入っていません。意志とか判断というものすらありません。それは月とか自然の法則とかいうものはコントロールできないものだと悟っているからです。そして、そういう水のようであれ、と「妻」は言ったわけです。すなわち、私の読むところ、この小話の結論はこうです。

タイムマネジメントの要諦、それは、ただ水のごとくあれ、ということである。

我々の暮らす世界は、純粋な自分の欲望に従って動けばいい、という世界ではありません。というか、人間に「純粋な自分の欲望」なんてものがあるのかどうかも怪しいものです。我々は、常に世界との関わり合いの中で、「やりたいこと」を心の中につくっているはずです。

この「やりたいこと」というのは、夢とか将来設計とか、大げさなものではありません。次の1秒に何をすることを望むか、ということです。それは、月によって海水が引っぱられるような、微かな心の動きです。

例えば、今あなたが取っている姿勢は、本当にあなたにとって最もラクな姿勢ですか? どこかに変に力が入ったり不自然に歪んだりしてはいませんか? それに気づくことができれば別に何も難しいことはありません。姿勢を修正したらよろしいでしょう。しかし、もし気づくことができなければ、不快な姿勢のまま自分に負担をかけ続けることになります。このように、自分の「感じていること」に鋭敏になれることは大事なことです。

ところが、タイムマネジメントが指示する「次はこれをやるべし」という大声は、心の中の「本当にやりたいこと」をかき消してしまいます。もちろん、自分の意思でそのタイムマネジメントを選択したという実感があるうちは、大きな問題はありません。けっこうな効果を発揮してくれるでしょう。しかし、やがて自分の「やりたいこと」と、そのタイムマネジメントシステムの助言が乖離かいりしはじめたとき、「面倒」という感覚が発生し、当然システムは崩壊します。

重要なことは、自分が何をやりたいのかを感じることです。そして、これこそが最も難しいことです。私は、今、自分の鼻の中を吹き抜ける空気の感触を、またもや忘れていました。すぐそこに確かにあったのに、教わるまで気づくことができないのですよ、人間ってのは。そして、心の中にある「やりたいこと」が何かを教えてくれる人間は、自分自身以外にはいません。

水のごとくあれ、です。もちろん、言うは易し、というやつですが、そんなに複雑なことをやる必要はありません。まずは、外界にいちいち反応して判断したり評価したりするのをやめることです。そして、呼吸による空気の流れを皮膚感覚で味わったように、自分の心をさぐって、「自分が実はずっと感じていたこと」を感じることです。それに気づくことができれば、あとは体の力を抜いて、自然にその傾きにしたがって流れていけばいいのです。

別に急ぐ必要はありません。ただ、あるがままにあればいいのです。水は、たとえそれがコップの中に静止して見える水であっても、常に最速で流れ続けているのですから。