スライムが4,5匹現れた、曖昧な日本のruby、ピントを合わせる

日本語は曖昧な言語であるとよく言われます。しかし、曖昧さとは、単なる情報の欠落なのでしょうか。「二、三日」と「三日」で、前者だけがもつ意味というものはないのでしょうか。今日は、日本語の曖昧さを武器として使う可能性について考えます。

 蕪村の有名な句、
   牡丹散りて打かさなりぬ二三片
この句の二三片を、もし正確に三片と数を数えていったら、おそらく句にはなりにくいだろう。数は挙げているが、二つ三つと数えて確かめたのではなく、牡丹の大きな花びらがはらりと散って重なった情景を詠んでいるのだ。この句から目に浮かぶのは、音もなくはらりと散る牡丹の花びらを焦点として、その周辺をソフト・フォーカスに包み込んでいる気分である。数を計算する目で見たのでは、この雰囲気はつかめない。この場合はどうしても二、三片とアイマイな言い方をすることが必要不可欠な条件なのである。

戸井田道三『忘れの構造』より

日本語は曖昧な言語であるとはよく言われるところです。主語の省略の問題については以前にも書いたことがありますが、それ以外にも例えば、単数・複数の問題があります。

種田山頭火のよく知られた自由律俳句「分け入つても分け入つても青い山」を、三浦久とジェイムズ・グリーンが英訳したものを見ると、"Wading through, / And wading through, / Yet green mountains still."となっています。mountainが複数形です。

ここで、はたしてこの「青い山」は2つ以上なのか?と考えることは、それはそれで興趣をそそる課題です、しかし、議論以前に、「山の個数など決める必要はないではないか」と考える人も多いでしょう。むしろ、山が1つか2つ以上かを明確に表現する必要がある英語は窮屈な感じがします。

このような事例を見ると、日本語は言語に自然にこめられる情報量が確かに少ないという感じがします。本当にそうなのでしょうか? そうではない、と戸井田道三は書いています。

戸井田道三によれば、蕪村が「二三片」というぼかした表現をしたのは、「焦点」を明確にするためです。この句の焦点は、「音もなくはらりと散る牡丹の花びら」であって、「花びらが何片落ちたか」ではありません。そこで、あえて「二三片」という曖昧な言い方をすることによって、「焦点」の位置を明示します。

「三、四日風邪で休んでいました」と「四日間風邪で休んでいました」だったらどうでしょうか。「三、四日」より「四日間」のほうが情報量が多いのは明らかです。その上、音数も字数も少ないのですから、どう考えても「四日間」のほうが情報伝達として優位です。ならば「三、四日」を使う人はいないでしょうか。そんなことはありません。

「そういえば、最近見なかったな。どうしたんだ?」「はあ、三、四日風邪で休んでました」という会話に、別におかしなところはありません。むしろ、ここで「四日間」と、はっきり日数を言うほうが変です。この会話での焦点は、「どうしたんだ」「風邪です」というところにあり、休んだ日数ではないからです。

「スライムが 4ひき あらわれた!」と「スライムが 4,5ひき あらわれた!」では、後者のほうが曖昧だ、というだけではない意味の違いがあります。前者では、現れたスライムを一匹一匹観察しているゆとりがありそうですが、後者では、スライムが突然現れたことに驚いて、冷静に観察している余裕がなさそうです。

こうなってくると、むしろこのような曖昧さは、機能的と言えるのではないかと思われます。言語はどうせ世界のすべてを表現しつくすことはできません。話し手・書き手によって、世界は捨象され、言語化されるのです。ならば、焦点でない部分を曖昧にすることにより、さらに焦点をくっきりと明示できる言語のほうが、「情報量が多い」と言えるはずです。

曖昧さを利用して焦点を明確化する技法は、芸術の世界では古くから知られていました。遠くのものをぼかす空気遠近法や、レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナリザ」において使用したことで知られるスフマート技法(輪郭をぼかす技法)などです。これらの技法は、対象をより「リアル」に描き出すためのもので、絵を曖昧にするためのものではありません。

空気遠近法により、対象は確かにぼやけて見えますが、その代わりに「遠近感」という情報が増えているのです。例えば、映画「耳をすませば」の背景に使われたことで知られる井上直久「イバラード」の中の「借景庭園」は、空気遠近法と一点透視法が組み合わせられており、遠くのものが大きく見える世界が表現されています。

また、ちょっと人を選ぶ例で申し訳ありませんが、プログラム言語の動的型付けと静的型付けの問題にも似たような構造を見出せます。静的型付けとは、大ざっぱに言えば、プログラム中の変数について、その型(数値型、文字型など)をあらかじめ明示しておく必要があるということです。比喩的には、mountain(単数)かmountains(複数)かをいちいち明示しなければならない英語と、静的型付けの言語は似ていると言えます。

動的型付けの言語は最適化(例えば高速化)が難しく、また変数の型をコンピュータに教えないためバグが発生する可能性も高くなります。にもかかわらず、動的型付けの言語が採用される理由の一つに、それが静的型付けに比べて「書きやすい」と感じる人が多いということがあります。

私には、これは、不要な情報を記述しないことによって、「焦点」が明確になるからではないかという気がします。直接、動的型付けの話とは関係ありませんが、中島拓は、ウェブ雑誌「るびま」の記事「ちょっと特異な特異メソッド入門」において、スクリプト言語rubyの特徴として、「モデルの厳密化を遅延できる」ことと、「パッと思い浮かべるイメージ」を記述できるということを指摘しています。私には、この2点のつながりがよく分かる気がします。

論理、厳密性を高く要求されるプログラミング言語の世界であっても、かくのごとしです。曖昧さというのは、単なる情報の欠落ではなく、むしろ、話の焦点がどこかを伝え、情報を増加させる機能があることが分かります。

ノーマーク爆牌党』という神麻雀漫画で、主人公鉄壁のライバル爆岡は「ピント」を意図的にズラすことで爆牌を打っていました。こんな比喩に何人ついてこれるのかさっぱり分かりませんが、ともかく、あえて「ぼかす」ことの可能性を我々はもっと真剣に考えるべきです。

「言ひおほせて 何かある」と喝破したのは芭蕉ですが、これまで、曖昧さの価値というものは読み手・聞き手の想像力に委ねられることが多かったと思います。しかし、むしろ、書き手・読み手の意図を明確に伝えるための武器として、曖昧さを評価すべきだと思います。