「幸福とは何か」、幸福のパラドックス、答えられない問い

幸福とは何なのかを理解できれば、私たちの人生の大きな助けになることでしょう。しかし、はたして、この問いは答えられる問いなのでしょうか。今日は、「幸福とは何か」という問いが本質的に回答不能であるかもしれないということについて考えます。

 京都の小さな饅頭屋の話である。こちらは、おばあさんが一人で頑張っている。近所ではおいしいと評判で、ときどき売り切れてしまう。ある人が、「こんなにおいしいんだから、誰か雇って、もっとたくさん作って、宣伝したら有名になるよ。値段ももう少し上げたら」と、経済学的には申し分なく合理的なアドバイスをした。味はいいのだが、あんまり儲かっているようには思えないから、そんな親切心が湧いたのかもしれない。
 おばあさんは、とんでもないことを言うという目でその人のことを見たそうだ。
 今でさえ、近所の人に行き渡らない。宣伝をしたり、値上げをしたら何十年も来てくれているお客さんが、買えなくなってしまう。それじゃあ作っている意味がない、という。
 おばあさんはかけがえのない商品を、かけがえのないお客さんに売っていたのだ。饅頭を売ることが金儲けの手段であるならば、経済学的に合理化すれば、もっと金儲けができる。しかし、このおばあさんにとって饅頭を売ることは、かけがえのないコミュニケーションである。
 コミュニケーションという目的と饅頭を売るという手段は、切り離すことができない。だから、逆に饅頭を売るという目的のためにコミュニケーションという手段が必要だと言えたとしても、おばあさんはコミュニケーションという手段を最小限度にすれば、饅頭を売るという目的がもっとも効率的に達成されたとは考えない。本当の充足とは、このような目的と手段を分けることのできない行為にある。

加藤尚武倫理学で歴史を読む』より

青臭いネタで恐縮ですが、今日は「幸福とは何か」ということについて考えてみます。もうなんか考える前から、答えを出すことはできなそうな感じがしますが、その通りです。今回の結論は、「『幸福とは何か』という問いに対して答えを出すことはできない」というものです。「なめとんのか」という感じですが、まあ、おつきあいくだされば幸いです。

引用した加藤尚武の文章は「本当の充足」について述べています。これは「幸福」という言葉で置き換えてもそんなに問題はなさそうです。さて、この文章の、本当の幸福が「目的と手段を分けることのできない行為にある」とはどういうことでしょうか。

とりあえず「目的」というのは何でしょうか。すぱっと私の思うところを書きますと、「目的」というのは、「でっかくてごちゃごちゃした世界から、ある一部分だけを取り出して行動選択の基準にするもの」です。例えば、「大金持ちになるのが目的だ」というのは、いろいろある世界から「金」というものだけ取り出して、それを増やすように行動するということです。

ここで、「ある一部分だけ取り出す」というところが重要です。とはいえ、そんなことは当たり前のことです。「目的」というには選択の指針になるものでした。選択は脳がするのですから、「目的」は脳が理解できるものでないといけません。脳は世界の一部分に過ぎませんから、脳に理解できるかたちにするには、何かを捨てないといけません。

さてここで、世界からある一部分だけ取り出してそれに対して「幸福」というものを考えることができるか?ということを考えてみます。例えば、「金」というものだけ取り出して、それのみを追及することは本当の「幸福」と言えるのか、ということです。

加藤尚武現代倫理学入門』の第5章「どうすれば幸福の計算ができるか」に、「食事の前のビール」と「食事の後のビール」では味が違う、という話が出てきます。確かにそうです。ということは、「食事」だけの幸福、「ビール」だけの幸福、というように別々に幸福を考えることはできないということです。「食事」と「ビール」をいっしょに考えないといけない。しかし、そうなると、「空腹感」とか「体調」とかも考えるべきでしょう。切りがありません。あっという間に、「幸福」を定義するために考えに入れるべき範囲は、世界全体に広がっていってしまうでしょう。

おそらく、「それさえ満たされれば幸福になれる」というような万能の「目的」は存在しないのではないかと私は思います。たぶん、「幸福」という概念は人間の脳が扱うには大きすぎる。だから、私たちは幸福を「目指す」ということはできない。ただ、幸福「である」ということだけができる。

「幸福のパラドックス」と呼ばれるものがあります。例えば、ギターを演奏する。ノリにノってるときは最高に気持ちがいい。しかし、演奏している人は、「気持ちよくなろう」と思って演奏しているわけではない。そんなことを考えてしまったら演奏は乱れます。アインシュタインは「なぜ宇宙はこうなっているんだろう」と考えて相対論を発見し偉人になったわけで、「偉人になろう」と思っていたから偉人になったわけではない。同じように、「幸福になろう」と思って幸福になることはできない。

私には、冒頭の文章で加藤尚武が書いていることも同じようなことだと感じます。おばあさんにとっては、お客さんとコミュニケーションすることが目的でした。しかし、そのことと饅頭を売ることは切り離すことができません。そして、饅頭を売るというのは、おばあさんにとって、生きるということそのもの、世界全体なのであって、誰かが自分に代わって饅頭をつくって売ればいいというものではありません。それはまさしく「かけがえのない」ものです。

つまり、「幸福」というものは、この世界全体に対して定義されるものであって、世界から人間が理解できる一部分を取り出して、その一部分だけを見て「幸福」というものを定義することはできない。せんじつめて言えば、「幸福」を人間は理解できない。私の考えはこうです。

もしこの通りであるならば、「幸福とは何か」という質問には納得できる答えはない、ということになります。もし「幸福とはこれこれである」と言われて、「あー分かった」と思ったのだとしたら、そこで「分かったもの」は、すでに「幸福」そのものではないということです。幸福の格言というものがものすごくいっぱいあるのは、それが答えられない問いだからです。

多くの書物では、「金を儲ける」とか「有名になる」ということが「幸福」である、ということを疑いもしません。それよりは良心的な書物でも、「夢をもて」とか「目標を決めよ」というふうに、「幸福」が「理解できるもの」であるということは疑いません。私とて「夢」とか「目標」とかが人生の大きな力になることは否定しませんが、それは所詮「方便」である、ということを分かっていないと、結局は堂々めぐりになるのではないでしょうか。

「幸福はお金じゃない」ともよく言われることです。でも、やっぱりお金も大事でしょ。明日の食事を買うお金もないのに、でも心は幸福だ、なんてことがありえるでしょうか。やはり「幸福」というものについて、人間が理解できるように何事かを語るという、それ自体がそもそも無理なのではないかと思います。

数学における大変重要な業績の一つに、ゲーデル不完全性定理というものがあります。大ざっぱに言うと、数学がどんなに進歩したとしても、原理的に証明も反証もできない定理が必ず残り、さらに、数学は自分自身が正しいことを決して証明することができない、というものです。また、物理においては不確定性原理があります。速度と位置など、ある種の物質量を同時に誤差なく測定することはできないというものです。

どうも私には、この世界における根元的な問いというものは、ことごとく人間には本質的に答えられないものになっているのではないかという気がします。「幸福とは何か」という問いもまた、その一つなのではないでしょうか。