すべてのクレタ島人は嘘つきか、「痛くなッ」、見えないフレーム

「すべてのクレタ島人は嘘つきだ、と或るクレタ島人が言った」という文章は自己矛盾文としてよく知られています。ところが、これは自己矛盾文ではないのです。今日は、言葉を使ってものを考えるときに入り込んでくる暗黙の仮定について考えます。

 これは一見したところなんでもないこと、簡単なことのようにみえるが、なかなか高次の働きである。というのは、《これは遊びだ》というメッセージは、エピメニデスのパラドックス――つまり《すべてのクレタ島人は嘘つきだ、と或るクレタ島人が言った》――に似た陳述の自己矛盾性を突破する働きをもっているからである。いいかえれば、ただ無邪気に遊んでいるだけでなく、それを客観視あるいは異化する眼を含んでいるのである。

中村雄二郎術語集

この日記では、原則として中学入試か高校入試で出題された文章から引用を行っていますが、今日は大学入試の文章です。神戸大学です。

出題時は、引用文の「すべてのクレタ島人は嘘つきだ、と或るクレタ島人が言った」というところに傍線が引いてあり、この傍線部が「なぜ自己矛盾しているか。六十字以内で記せ。」という問題が出題されていました。

私がこの問題を見たのは、出口汪『出口現代文入門講義の実況中継(下)』です。そこでは、「ちょっと頭のトレーニングみたいなものですね。これは非常に有名な言葉ですけれど、少し説明しにくかったな、という気はします。」とコメントがあり、解答例は、「発話者のクレタ島人が嘘つきでないなら陳述は誤りとなり、逆に嘘つきなら陳述もまた嘘となり、いずれの場合にも矛盾するから。」となっています。

しかし、この文章、実は自己矛盾ではないのです。

「或るクレタ島人」が嘘つきだとしましょう。すると「すべてのクレタ島人は嘘つきだ」という文章が嘘になるわけです。となると、どうなるのでしょうか。

ここで多くの人が、「そのときは『すべてのクレタ島人は正直者だ』が成り立つはずだ」と勘違いしますが、そこが誤りです。「すべてのクレタ島人は嘘つきだ」の否定は、「あるクレタ島人は正直者だ」です。「すべてAだ」の否定は、「すべてAではない」ではなく、「Aでないものもある」です。「すべての女は悪女である」という命題を否定するには「悪女でない女もいる」ということを言えばよい。反例は一つで十分です。

というわけで、この「すべてのクレタ島人は嘘つきだ、と或るクレタ島人が言った」という文章は、クレタ島人の中には正直者もいる。しかし、「或るクレタ島人」は嘘つきであった。という解釈をすれば矛盾になりません。

そうなると、この神戸大の出題はほとんど破綻しています。もっとも、現実社会でも、論理的に正しいかどうかはっきりしない主張に立って相手を説得することは必要、というかそういう場合がほとんどかと思いますので、むしろ、論理的に間違っている主張を相手に説得することはよい練習になるとも考えられます。説得されるほうはたまりませんけど。

さて、ここまで私は、鼻息も荒く、鬼の首をとったように論理的な「誤り」を糾弾してきたわけですが、この議論を「屁理屈だ」「あげ足とりだ」と感じる人もいるでしょう。そこで、もう少しつっこんで考えてみることにします。ここからが本題です。

「すべてのクレタ人は嘘つきだ」の否定として「すべてのクレタ人は正直者だ」とするのは誤りだ、と私は申し上げたわけですが、このような「誤り」は、「クレタ人」は「すべて嘘つき」か「すべて正直者」のどちらかである、という仮定があって初めて成立するものです。要するに「クレタ人」を一枚岩だと考えているわけです。

しかしです。よく考えてみると、「嘘つき」とか「正直者」とかいう言葉そのものに、同じような仮定が入っています。この話で使われている「嘘つき」という言葉は、「すべての発言が嘘であるような人」という意味です。ですが、そんな嘘つき職人みたいな人間が現実にいると考えるのはかなり無理があります。タンスのカドに小指ぶつけても「痛くなッ」とか言ってるんでしょうか? 気合い入り過ぎです。

しかし、ここではそういう人間が仮定されていたわけです。一人の人間が嘘をつくこともあれば正直に話すこともある、などと言い出したら話がまったく前に進みません。そこで、一人の人間の発言は、すべて嘘がすべて本当のどちらかだ、と暗黙の仮定をおくわけです。

このように考えてみると、実はここで問題になっていたのは、論理の問題ではなく妥当性の問題です。「人間は、いつも嘘ばかり言うか、いつも本当ばかり言うかのどちらかだ」という仮定と、「クレタ島人は、全員いつも嘘ばかり言うか、全員いつも本当ばかり言うかのどちらかだ」という仮定のどちらが妥当かということです。

私には、「クレタ島人全員」が「すべて嘘つき」か「すべて正直者」だと仮定するのは、そうとう無理がある気がします。こんな仮定は、「人間」は「すべて嘘つき」か「すべて正直者」かどちらかだ、という仮定まであと一歩ではないでしょうか。ところで、もし、このような「すべての人間」に対する仮定が成り立つなら、「『すべてのクレタ島人は嘘つきだ、と或るクレタ島人が言った』と言った人」が嘘つきという可能性が出てくるので、「そもそも『或るクレタ島人』などいなかった」とすれば万事解決ですね!

ともかく、「すべてのクレタ島人は嘘つきだ、と或るクレタ島人が言った」という文章が自己矛盾文であるかどうかは、論理的に決定できることではないようです。それは、「何がより妥当なフレーム(枠組み)か?」という、論理とは違う次元の考察を必要とします。

悩ましいのは、こういう見えないフレームが我々の思考に、無意識のうちに入りこんできていたということです。それによって、我々は、機械にはマネのできない高度な思考能力をもつことができているわけですが、一方で、思考の自由を奪われてもいます。

このパラドックスが「クレタ島人」のパラドックスなのは、クレタ島にエピメニデスという優秀な予言者がいたからではなく、「クレタ島人はいつも嘘をつく」というレッテル貼りが伝統的にあったからです。明石家さんまが「リズム感がなくて困ってる黒人もいるはず」という意味のことを言っていましたが、それと同じです。一人一人のクレタ島人はもちろんいるわけですが、抽象的な集合体としての「クレタ島人」がいる保証なんてありません。

神の死によって「世界」の一体性が崩れ、多文化主義によって「人類」の一体性が崩れ、個人主義によって「共同体」の一体性が崩れました。ならば、「クレタ島人」に押しつけられた「一体性」という束縛を、そろそろ解いてあげてもいいような気がします。もっとも、次はおそらく、「個人」の一体性が崩れていく番でしょう。そのとき、バラバラになった意味の破片の上に何が残るのか、それもなかなか興味深いところです。