日が沈む所はどこか、地平線まであと少し、「菫の花」でなく菫の花を
『宇治拾遺物語』に、孔子にむかって、「日の入る所」と「洛陽」のどちらが遠いか、と質問する子供が出てきます。孔子は当然「日の入る所」と答えますが、それに対する子供の答えとは? 今日は、我々の目を隠しているあるものについて考えます。
今は昔、
唐 に、孔子、道を行き給ふに、八つばかりなる童 あひぬ。孔子に問ひ申すやう、「日の入る所と洛陽と、いづれか遠き」と。孔子いらへ給ふやう、「日の入る所は遠し」。童の申すやう、「日の出で入る所は見ゆ。洛陽はまだ見ず。されば日の出づる所は近し。洛陽は遠しと思ふ」と申しければ、孔子、「かしこき童なり」と感じ給ひける。(
『宇治拾遺物語』より
なかなか面白い話です。訳します。
今ではもう昔のことだ。中国で、孔子が道を歩いていると、8歳ぐらいの子供と出会った。その子が孔子に「日が沈むところと洛陽では、どちらが遠いのですか」と聞いた。孔子は「日が沈むところのほうが遠いよ」と答えた。子供は「日が沈むところは見えます。洛陽はまだ見たことがありません。ですから、日が沈むところが近く、洛陽が遠いと思います」と言ったので、孔子は「かしこい子だ」と感動した。
孔子は、この子供を「かしこき童」であると賞賛しています。それはまず、この子供が、知識をうのみにするのではなく、自分の体験によって論理的にものごとを判断している、ということあるでしょう。これは科学的な態度といえます。
2年ほど前に、国立天文台の縣秀彦助教授が小学生にアンケートをとったところ、地球のまわりを太陽が回っているという「天動説」を、4割の子供が信じていた、という結果が新聞に載り、話題になりました。この記事は、日本の理科教育ヤバイ!という文脈で語られることが多かったようです。
しかし考えてみると、日常観察できる範囲で「地動説による説明のほうが自然だ」といえる現象はそんなにありません。というか、大人でもぱっと出てくる人のほうが少ないんじゃないですか? 惑星の明るさの変化とか、逆行とかですね。なのになぜ我々が「地動説が正しく、天動説は間違っている」と考えているかというと、「学校でそう教わった」「教科書にそう書いてあった」からでしょう。こういう典拠主義が科学的な態度と180度真逆なのは言うまでもありません。
それでは、「日の入る所」と「洛陽」ではどちらが遠いのか、という質問についてきちんと考えてみることにしましょう。すると、ただちに、そもそも「日の入る所」ってどこよ?という問題にぶちあたることに気づきます。
「洛陽」までの距離については問題ありません。この2人の会話がどこで行われたのかは分かりませんが、孔子が主に活躍した魯(山東省)は、洛陽がある河南省と隣接していますから、まあ、だいたい1つの省の大きさ分ぐらいの距離だったのでしょう。
それでは、「日の入る所」ってどこでしょうか? 「地平線のあるところ」でしょうか? しかし、地平線までの距離は4kmぐらいしかないわけですが、そこに日が没するというのは、さすがに変ですよね。
つまるところ、「日の入る所」などという場所はこの世界に存在しない、ということです。だいたい「日の入る」という表現は「天動説」です。この表現がおかしいことが分からない人は、さきほどの話に出てきた天動説を信じる4割の小学生を笑うことはできません(余談ですが、「天動説」か「地動説」かという2択の質問で正解率60%というのは、20%のみがきちんと理解して正解し、残り80%はランダムに答えて2分の1の40%が正解した、ということですから、事態はもうちょい深刻です)。
とはいえ、「日が沈むところ」に類する言いまわしは非常にありふれています。歴史的に見ても、まずは聖徳太子の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、
「ヨーロッパ」の語源は、ギリシア神話の「エウロパ」から来ているとされます。しかし、なんで単なる物語上の一登場人物の名前が、世界史上最も重要な地域の名前になってしまったのかは、はっきりしません。最近では、古代アッシリア語の「エレブ」から来た、という説があるそうで、この単語の意味は「日が沈む場所」です。北アフリカのアラブ諸国を表す「マグリブ」の原義も同じです。
ここでは、「西」という相対的な方向を表す概念が、ある特定の地域を表す概念に変化しています。なんでこんなことができるのか?というのが面白いところです。
結論を出す前に、もう一つ考えます。子供は「日が沈むところを見た」と言っているわけですが、この表現はまったくもって自然なものです。しかし、それは「日が沈むところ」という「場所」を見た、と言っているわけではありません。「日が沈む」という「現象」を見た、と言っているわけです。「〜するところ」には、場所と現象の二つの使い方があり、元の話ではそれがごちゃごちゃになっているわけです。
これらはすべて、「言葉」に関する問題です。
そもそも「日が沈むところ」などという場所は存在しないのでした。にもかかわらず、あたかもそんな場所が存在するかのように、洛陽までの距離などを考えてしまう。すなわち、言葉になった瞬間に、ことがらは、我々があつかえる対象になり、そして、現実に存在するかのような錯覚を呼びおこすのです。
また、言葉になった瞬間に、それは絶対的なものであるかのような感覚を生みます。「日が沈むところ」というのは、あくまである一地点から見た相対概念であるはずですが、言葉にしたとたん、相手のもとに届けることができてしまうわけです。
また、言葉には「表現されている内容」だけでなく「表現のしかた」という要素もあるのでした。「日の沈むところを見た」という言葉の内容は、とある「現象」を見た、ということであるはずなのに、「〜ところ」という表現のしかたのせいで、「場所」についての言明であるような混乱が起きるのです。
子供は「日の沈むところ」について孔子に尋ねたのでした。我々はこの言葉を何気なく読みながします。しかし、子供に、それは洛陽よりも近いのではないか、と指摘された瞬間、自分が実は何も分かっていなかったことに気づくのです。
見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。
例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見るとそれは菫 の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。(
言葉はものごとの本質を隠す、ということだと思います。「菫の花」でなく、菫の花を見たいものです。