アベェロンの野生児、学校という装置、「人になる」「ヒトである」

「アベェロンの野生児」が人間に戻ることを許されないのはなぜか。「狼少女」アマラとカマラというつくり話が消えないのはなぜか。今日は、野生児たちをめぐる人々の心の動きを考えることにより、近代という時代が生みだした私たちの隠れた願望について考えます。

 野生児のなかでも有名なのは、一七九九年の九月、フランスのアベロンの森で発見された少年である。つかまったとき少年は、うすぎたなくよごれ、髪は伸びほうだいで、まるはだかであった。木や草の根を食べていたらしく、肉や卵には見向きもせず、しじゅうおどおどして、動物園のおりのなかのけものよりみじめで、けがらわしく見えた。
 人が急に近づくと、歯をむきだしにしてうなった。食物を与えるとすみっこに持って行き、ガツガツ食べた。
 どこから見てもけものであり、オオカミ少年のさっそうとしたすがたはなかった。この少年がパリに連れてこられた時、人びとは争って見物にいったという。そして、等しく失望して、たちまち見物人がいなくなったそうだ。オオカミ少年というイメージからはあまりに遠いことがその理由だと当時の記録には書いてあるが、ぼくはそれだけだとは思わない。見物人の多くは、人間のもっとも獣らしいすがたをみせつけられて、こわくなったか、うんざりしたのだ。

畑正憲生きる――アメーバから人まで』より

「アベェロン(もしくはアベロン)の野生児」と呼ばれる少年の話。ヴィクトールと名づけられたこの少年は、発見時の推定年齢は十一、二歳。その後、四十歳まで生きましたが、結局、人間の言葉はほとんど話すことができませんでした。

「アベェロンの野生児」とよくならんで話題にされるのは、「狼少女アマラ・カマラ」の話です。インドで発見された、1歳と8歳と推定される二人の少女は、狼に育てられたとされています。四つ足で歩き、夜行性、嗅覚・聴覚が鋭く、生肉を好んだ……などの記録が残っています。もっとも、狼の母乳をヒトが飲むのは無理ですし、赤ん坊がジャングルの環境に耐えられるとも思えません。個体としての「地上最強の生物」は人間らしいですけど、赤ちゃん時代に限定すると人間が哺乳類最弱なのはまず疑いないところです。

ともあれ、これらのエピソードからは「人は教育によって人になる」というテーゼが導びかれます。教師の好きな話というのは、合法的に子供を脅迫できる話です。アベェロンの野生児を教育した医師ジャン・イタールが教育者としてたぐいまれなる情熱をもっていたのは疑いようがありませんが、そうでもなさそうな教師たちによっても、この「アベェロンの野生児」の話は教育の必要性を示すものとされ、広く流布されることとなりました。

教育機関というのは「近代」という時代の産物です。岸田秀「子どもとは何か」の表現を借りれば、近代的理性人は、おとな・文明人・正常者などのネガとしての、こども・未開人・異常者を「発見」し、それを隔離するために、学校・植民地・精神病院など、近代を支える装置をつくったのでした。

私は、このアベェロンの野生児が発見された一七九九年が、「近代」の本格的な開始の時期であったことに注目します。

「アベェロンの野生児」や「狼少女」の話が、近代という時代を反映しているのは、一つには今見てきたような教育の問題があります。そもそも近代以前は、学校という教育施設が必要だという考え方があまりなかったわけです。それなのに、いつのまにか「教育されねば人にあらず」という思想が世界を覆い、そのプロバガンダとして彼ら野生児たちが登場してくるのです。

しかし、私はもう一つ、近代という時代の「らしさ」をこれらの話から感じます。

引用した文章で畑正憲が書いているように、アベェロンの野生児は期待されたわりに人気がありませんでした。それは「どこから見てもけものであり、オオカミ少年のさっそうとしたすがたはなかった」からでしょう。では、いったい見物人たちは、「オオカミ少年」に何を期待し、何に失望したのでしょうか。

また、「オオカミ少女」アマラとカマラは、なぜ、オオカミに育てられたなどという、生物学的には荒唐無稽な設定をされたのでしょうか。私の知る限り、オオカミに育てられたということを事実として受け止めている人はかなりいます。このような誤謬が消えないのには理由がありそうです。

山崎正和近代の擁護』には、人間がなぜ自然愛護をするかについて、なかなか面白いことが書かれています。

まず、近代人は「自分を世界の中心」「世界の対峙する存在」とみなしています。このことは、人間中心主義・自由主義を生みましたが、同時に、人間は「生命の鎖から切り放され」た頼りない存在となってしまいました。そのため、人間は「自然」という「自我に直接の挑戦をすることなく」「個人を超えた生命の実感をあたえてくれ」るものを愛するようになった、というのです。

要するに、近代になって、人間は世界から分かたれて一人で生きていくことになってしまったのですが、それではやっぱり寂しくて、世界とのつながりを求め続けている。

だとすれば、アベェロンの野生児に人々が求めたものもはっきりします。それは、人間とオオカミの合一であったはずです。しかし、アベェロンの野生児ヴィクトールは、オオカミの力の片鱗すら感じられない、ただのみじめな少年にすぎませんでした。それは、世界から切り放された近代人そのものの姿です。そんなものを金を払って見にいく酔狂人はいません。

同じように、アマラとカマラはオオカミに育てられたのであってほしいと、人々は望んでいるのでしょう。人間は、今や人間になるために教育などというものを必要とする、大変「不自然」な存在になってしまいました。その反動として、人間が自然の中で生きていける存在であってほしいという願望が生まれるのではないでしょうか。

アベェロンの野生児ヴィクトールは、実は自閉症児であった、という説があります。ヴィクトールは耳もとで拳銃を撃っても反応せず、しかし、木の葉の葉擦れの音には敏感だったそうですが、これは自閉症児の特徴だというのです。であれば、教育によって矯正することに限界があったのは当然のことです。もし、その種の疾患がなければ、教育によって矯正することは可能であったかもしれないと考えられています。

しかし、ふつうこの話が引用されるとき、そんな可能性が省みられることはあまりありません。ほとんどの場合、強調されるのは「幼児期に適切な教育を受けないと、こういう野生児のままになってしまい、人間に戻ることはできないんだぞ!」ということです。

このことは、私には逆に「自然によって教育されれば、人間は自然児になれるんだ」という人々の「願望」の発露であるように感じられます。そこには、教育によって自然から切り離される近代的人間への強迫と、その裏返しとしての、自然とのつながりを保ち続ける野生的人間への憧れ、この2つの意識があると思います。

私は、近代という時代は悪い時代ではないと思っていますし、自分がこの時代に生まれたことはラッキーだったと思います。しかし、野生児たちが話題にされるときに私がなんとなく感じる「いろいろしんどいねえ」という主語不明の述懐は、たぶん、近代という時代の息苦しさなのです。