死人が生き返ることはあるか、早すぎた埋葬、惜しみなく花もて埋めよ

生きながら埋葬される、あるいは臓器を摘出される、これはそうとうな恐怖だと思います。しかし、現実にはこんなことがけっこうあるのではないか? 今日は、「死んだ人が生き返ることがあると思うか」などと子供に聞く大人はアホではないか、ということについて考えます。

甲虫かぶとむしがとうとう死んだの。それで、あの子今まで泣いて泣いて……」。
 鳥や虫の小さい生命の消えるたびに、いつも事新しく悲しむ次女が哀れにもまた好ましかったので、そのとき私は、なんとなく微笑した。
 明けての朝は二学期初めの登校日。曇り空だが雨はあがっていた。
「帰ってから花壇に埋めるから預かってネ」――次女はそう言い、ちり紙に包んだ甲虫を私の机に置いて登校した。
 あとで紙包みを開いてみた。甲虫は生きていた。後足がかすかに動く。「まだ生きてるじゃないか!」――予期せぬ驚きが声になった。台所にいた妻が、信じられないという顔で甲虫を覗きに来た。砂糖水を含ませた綿きれを、妻は甲虫の口に当てがい、吸う力のない様をしばらく見つめていた。

吉野弘「台風」より

さて、この甲虫はあやうく生き埋めにされるところでしたが、人間の場合も同じようなことがありうるでしょうか?

土葬の習慣がある欧米では、生きながら埋葬されるというのは、怪談の一つの典型です。エドガー・アラン・ポーに「早すぎた埋葬」というホラー作品がありますし、また、諸説ある吸血鬼伝説が生まれた理由の中に、生きながら埋葬された人間が棺の中ででもがき苦しんだ痕跡が吸血鬼伝説を生んだ、というものがあるそうです。

この「早すぎた埋葬」は、単なる作り話でないようです。Wikipediaの"Premature burial"の項によれば、「早すぎた埋葬」の最古の記録は13世紀からあり、1600年代には100例以上が報告されているそうです。ここには、てっきり死んだと思って解剖しようとしたら起きた、みたいなことも書いてあり、ガクブルものです。

なお、この「早すぎた埋葬」防止として、アイルランドでは、故人の棺に携帯電話を入れるのがブームなのだとか。でもこれ、棺の中で目覚めたとき、圏外だったら笑えますね! いや笑えないか。

日本は火葬ですから、死後復活は欧米ほどメジャーなものではないでしょう。それでも、日本では死亡確認から24時間経過しないと埋葬許可が下りません。これは、やはり死者が蘇生する可能性を考えてのことでしょう。

そもそも人間はどのように死ぬのでしょうか。古くは、脳、心臓、肺の3つすべてが機能停止した状態が「死」とされてきました。

多くの場合、まず心肺が停止し、次に脳が停止します。人間の脳は呼吸停止後、およそ5分で低酸素のため不可逆的なダメージを受けるとされます。このため素早い心肺蘇生は非常に重要です。1分間に100回のペースで胸骨の下半分を圧迫するとよいそうです。なお、Wikipediaによると、このリズムは「アンパンマンのマーチ」のリズムと同じだそうですが、目の前で人が意識を失っているのに、この歌を思い出せる人は、そうとうの豪傑だと思います。

この「死」の定義は、医学の進歩により、大きく揺らいでいます。言うまでもなく、「脳死」が出現したためです。脳が死に、自発呼吸が失われても、人工呼吸器による延命が可能になったのです。ここで脳死ははたして死か? という問題が生じます。

もし脳死状態でも「生きている」のだとしたら、臓器移植などされるのはまっぴらなことです。例えば、イタリアで、2年間植物人間状態だった男性が復活し、「その間の周囲の会話は全て聞こえていた」と語ったなどの事例もある、などと聞くと、さすがにシャレにならんという感じがします。

「臓器摘出時に「脳死」の患者が動くって、本当ですか?」というページは一読をお薦めします。「ラザロ徴候」と言われる脳死患者の動作は驚愕です。人工呼吸器を外したときに、患者が腕を胸の前に、まるで祈るような形に移動させる動きです。また、脳死の人間にメスを入れると、患者の血圧が上昇しのたうち回ることがあるとか。これは怖い。

さらには、ドナーカードをもっていると、治療の手を抜かれると主張する人もいます。延命ではなく臓器保存を目的とした治療をされてしまうとか。「ドナーカードをもつな!」と主張をする内容の本を読んだ学生のレポートがネットにありますが、これがなかなか興味深い。日本軍の戦争犯罪を教わった中学生の感想文みたいになっております。

もっとも私自身はかなり「唯脳論」でして、まあ「脳死」は「死」であろう、という立場なのですが、それでも、このような「生きながら殺される恐怖」は理解できます。

しかし、ここで、ちょっと面白いことに気づきます。「生きながら殺される」ほうが、ただ「死ぬ」恐怖よりも強いような気がすることです。よく考えるまでもなく、これは不合理なことです。

さて、話は飛びまして、「死んだ人が生き返ると思いますか?」という質問が、大人から子供に向けてよく行われます。これは実に愚かな行為だ、と私なんかは思うわけですが、それについて考えてみます。

例えば、長崎県では佐世保の小学生殺人事件などを契機に、児童の「死のイメージ」を調べるためのアンケートを実施しました。その中に「死んだ人が生き返ると思いますか」というものがあります。この質問に、中学生2年生の18.5%が「はい」と答えたことが話題になりました。

もう一つ、日本小児保健学会でなされた「死を通して生を考える教育」という発表もあります。それによると、400名弱の小学生に対して「死んだ人が生きかえることがあると思うか」という質問を行ったところ、「ある」が33.9%、「ない」も33.9%、「分からない」31.5%という結果でした。

しかし、アホな質問です。そもそも、Wikipediaの「死」の項に、「死とは、生命活動が不可逆的に止まること」とあるように、「死」という概念自体に「不可逆的である」「取り返しがつかない」という内容が入っているというべきでしょう。となると、この「死んだ人が生き返ると思いますか」という質問はなんなんだろう、という感じがいたします。

この「死んだ人が生き返ると思うか」という問いは単なるトートロジー(同語反復)であり、「絶対に答えられる問い」です。こういう質問を大人は子供によく問いかけるわけですが、これは、子供が大人に「絶対に答えられない問い」をするのと対照的です。実はどちらも、相手に「お前は無力なのだ」と言いたいだけなのでしょうか。

一般に、「死んだ人が生き返ると思う」と答える子供がいるのは、「死」を身近に経験する機会が減ったからだ、と考えられているようです。養老孟司がどこかで書いていましたが、確かに現代社会は生老病死がすべて隔離され、不確定な未来がなくなった社会であります。また、ゲーム・アニメなどとの関係も指摘されます。確かに、漫画の主人公が「死んでもドラゴンボールで生き返ればいい」などと言っているのを見れば、現実と仮想の区別のつかない大人たちは不安になるでしょう。

それでは、昔はどうだったのでしょうか。当然、昔のほうが「死」が身近であり、諸悪の根元たるゲームなどもありませんでした。しかし、「死んだ人間が黄泉返る話」というのは昔からむちゃくちゃたくさんあるわけです。だいたいキリスト教の根っこのところに、イエスの復活があるわけですし、「死んだ人間が生き返る」という発想は、古くから人間にとって自然なものであったのは言うまでもないと思います。

だいたい経験すりゃ分かる、などというのは、そりゃ大人にとっては都合がいい話でしょうが、常に真実とは限りません。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」(ビスマルク)なんて言葉もありました。

いや、もちろん、私とて死体を目にする体験の減少が死生観に影響を与えるのは当たり前だとは思いますが、「死んだ人が生き返るか」という質問でそれをとらえようとするのは、あまりに馬鹿げています。さきほど例にあげた日本小児保健学会の発表でも、「TVゲームの経験」「身近な人の死の経験」「蘇生観」の3つについて統計的な関係を調べたところ、無関係という結果になっていました。

「死」は定義からして不可逆なものなのですから、「死んだ人間は生き返るか」という質問は無意味な質問と言っていいでしょう。こんな質問をするぐらいなら、はっきり「殺人事件などおこして大人の手を煩わせないように。とにかく理屈抜きで殺人禁止! その理由を聞くのも禁止!」と言ったらいいと思います。

しかしです。現実社会において、ある概念がその定義そのままで機能する、ということはあまりないはずです。「死」などはその典型です。「死」は誰か(普通、医者でしょうが)によって決定され、社会の中で機能します。そのような「現実の死」は、はたして不可逆なのでしょうか?

そうではない、というのが、この文章の前半で見てきたことでした。その意味で、「死んだ人は生き返る」というのが、私の答えです。

「死」というのは、単に生物学な生体の機能停止ではありません。それは社会的に受容され、そこにかかわる人々の心の中である位置を占めねばならぬものです。そうでなければ、ネアンデルタール人が死者のまわりに花をかざったりする意味はありません。また、我々が生きながら殺されることを極度に恐れるのも、それがきちんと受容された死ではないからでしょう。

この「死」についての反省を欠いているから、「死んだ人は生き返ると思うか」などという質問がしゃあしゃあとできるのです。

そもそも、我々は自分が本当に「生きている」のか、よく考えてみるべきです。夢も生きがいも何もない、同じことのくり返しで1日がまた過ぎてゆく。こんな大人は間違いなく「死んだ人」です。

もちろん、私も他人事ではありません。吉野弘は冒頭に引用した散文詩の中でこんなことを書いています。「どんなに追いつめられたときでも、生命は生命を証明しなくてはいけない」と。がんばらないといけませんね。死んだ人は生き返るのです。