どこに行けば人間の死体に出会えるか、詐欺みたいな話、今を

現代日本で人間の死体に出会うためにはどうすればいいか? これはけっこうな難問です。でも、なんで我々はそんなに「死」を見るのがいやなんでしょうか? 今日は、「予定された未来」ではない、本当の「今」を生きることについて考えます。

ただし、自分がどの段階でどれだけ年老い、どれだけ体力を失い、感覚がどれだけ鈍るか、それは手帳に書いてない。さらにいつ、どういう病にかかり、その結果、いつ死ぬことになるか、やはり手帳には書いてないのである。考えてみれば、その手帳がすなわち意識である。意識という手帳は、そこに書かれていない予定を無視する。いかに無視しようと、しかし、来るべきものはかならず来る。意識はそれをできるだけ「意識しない」ために、意識でないもの、具体的には自然を徹底的に排除する。人の一生でいうなら、生老病死を隠してしまう。人はいまでは病院で生まれ、いつの間にか老いて組織を「定年」となり、あるいは施設に入り、やがて病院で死ぬ。日常の世界では、そういうものは「見ない」ことになる。こうして世界はますます「ああすれば、こうなる」ものであるように「見える」ようになる。その世界では、意識がすべてとなり、時間はすべて現在化するのである。

養老孟司考えるヒト』より

養老孟司の文章って、どこで切っても養老孟司ですねえ。いいなあ。

まずは少し解説しておきましょう。今回引用した文章の末尾に、「時間はすべて現在化する」という言葉があります。はて、「現在化」とは何でしょうか。実は、この文章の少し前で、養老孟司はこんなことを指摘しています。我々がふつうに使う「現在」の意味は、字引にあるような「ただ今、この時」ではない。それは「予定された未来」なのである、と。

一瞬、は?と思いますが、言われてみるとその通りです。例えば、「あなたは今、どんな仕事をなさってるんですか?」と聞かれて「私は外科医をしています」と答えたとします。この会話を文字通り解釈すれば、「私は今、バリバリ手術中ですオラオラァ!」という意味のはずですが、普通はそうではない。これは、「私は、近い将来、手術をする予定があります」という意味です。ここでの「今」は「時の一点」ではないわけです。

もう少し極端な例で考えます。深夜あなたが読書している。そこに友人から電話がかかってくる。「お前、今、何してた?」「本読んでた」。これは問題ない。

では、深夜あなたが読書している。そこに友人から電話がかかってくる。「お前、今、何してた?」 そのとき、突如、玄関から爆発音がして、男たちが罵声とともに自宅に乱入してくる靴音が聞こえたとする。そのとき、あなたは電話の相手にどう答えるか? ここで、「本読んでた」と答える人はいないですね。「おいっ、今なんか音が、うわ、何をするやめqあwせdrftgyふじこlp」。でも、いいですか。「今、何してた」かは、さきほどの場合と変わっていないはずです。なぜ答えが変化するのか。

すなわち、我々にとっての「今」とは「予定された未来」のことなのです。そして、現代社会では、この「今」が未来へ未来へと延びている、と養老孟司は指摘します。仕事のほとんどは未来のために行われます。何年も先の仕事の予定が立っていることはめずらしくありません。子供たちは、いい中学に入るために勉強します。それは、いい高校に入るためです。その先には、いい大学があり、いい会社があり……。現代人は、未来のために、今を生きるのです。

しかし、現在化できない未来もあります。それは生老病死です。しかし、現代社会は、それすら隠してしまう。――今日は、この隔離された「死」について考えてみたいと思います。

なんだか、このブログでは「明日どうやって死ぬか」とか「死人が生き返ることはあるか」とか、死ぬ話ばっかりしているような気がしますが、まあ、おつきあいください。

さて、「死を隠す」とは、どういうことか、それはまず単純に「死体を隠す」ということかと思われます。現代日本では死体を見ることが非常に難しくなっています。まずは、そのあたりから考えてみましょう。

もちろん、「死体」すなわち「死」か、というと、これは微妙です。「吾等われらは死を見るあたはず、たゞ死体を見るのみ」とは国木田独歩の言葉ですが、「死体」を見ても、そこに「死」を見ることができるかどうかは、また別の話でしょう。

ともあれ、合法的に「死体」を見る方法を考えることで、我々の死の意識について、何かヒントが得られるかもしれません。

まず、死体の扱いについては法律でがんじがらめにされています。「刑法」には、墳墓発掘(189条)、死体損壊(190条)、変死者密葬(192条)などの罪が規定されています。また、「墓地、埋葬等に関する法律」によって、死体を埋葬する場所は厳しく制限されます。「戸籍法」などにより、人が死んだ場合は、すみやかに届けなければなりません。死体を学術目的に用いる場合も、「死体解剖保存法」や「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律」などによって、厳しい制限がつきます。

要するに、人間の死体がふつうに手の届くところに放置してある、などということは、現代日本ではありえないのです。ちなみにウルトラマンが倒した怪獣の死体は、各市町村が責任をもって処理しなければならないそうです。あんまり関係ありませんが。

今では、日本人の85%が病院で死ぬそうです。病院で死んだ人間は、ほどなく霊安室に移されます。一般人は、親族の遺体ですら、葬儀という隔離された儀式の中でしか見ることができません。

でも、なんとか死体を見ることはできないでしょうか?

もちろん、インターネットには死体写真があふれています。私が最も衝撃を受けたのは、なんといっても、動物変死体のスレでしょうか。想像をはるかに超える画像の数々に、ハートをわしづかみにされたような衝撃に受けました。みなさんも、このリンク先を開くのは本当に覚悟の上でお願いしますよ。

しかし、写真ではなく、本物の死体を見る方法を考えましょう。

まず、死体を見られる職業につく、という方法が考えられます。例えば、警察官、監察医、検察官、葬儀関係者、エンバーマー(死体を修復、保存処理する人)、死刑囚を看取る看守、解剖実習のある医学部生などが考えられます。この手の職業にまつわる話では、なんといってもみなさんご存じ、ブログ「特殊清掃「戦う男たち」」が極北です。食事中は読めません。

しかし死体を見るために特定の職業につけ、というのも無茶です。なんとかならんか。

外国に行けば、けっこう簡単です。タイの死体博物館などが有名でしょうか。ネット上では「世界の死体展示事情」などがよくまとまっていると思いますが、ここには世界で最も美しい死体と言われるロザリア・ロンバルドが紹介されていないので、そちらもリンクしておきます。

タイ仏教には不浄観と言われる、死体が腐敗する様子を観察する修行があるそうです。また、アメリカには、死体が腐敗する様子を研究している実験施設があるので、そういうところに参加するのもよさそうです。

また、虐殺が行われたルワンダや、大地震があった場所にボランティアに行けば、確実に死体を見ることができるでしょう。傭兵になって戦場に出るのも確実です。自分が死体になるかもしれませんけどね。こうしてみると、日本は今日も本当に平和ですなあ。

外国までわざわざ行くのはちょっと……。なんとか日本国内で見られないか。というわがままな読者諸兄のために知恵をしぼりましょう。

人体の不思議展はご存じの方も多いでしょう。しかし、これは、遺体が特殊樹脂加工されていて、本物っぽくないので却下したいと思います。同じ理由で、医学標本も管理された死のような感じがしますし、遺跡などから出土する古代人の白骨死体もあまり面白く感じません。面白いとか面白くないとか、だんだん不謹慎になってきましたが。

沖縄には洗骨と呼ばれる、遺骨を墓地から取り出して洗い清める風習があるそうです。しかし、これは赤の他人がほいほいと参加できるものとは思えません。

といわけで、私が今回ひねり出した、特定の職業につくことなく、日本国内で、合法的に死体を見る方法を書くことにしましょう。

そもそも、既に見たように、現代日本において、死体が死体のまま放置してある、という可能性は限られます。それは、死体であることに意味があり容易に埋葬できないか、あるいは、本人がわざわざ人目につかないところで死んだか、のどちらかであるはずです。つまり、自殺に限る、ということです。そう考えると、おそらく次の二つの方法ぐらいしかないと思います。

まずは、即身仏(僧侶が土中で水・食物を絶ち、自らミイラ化したもの)を見にいくこと。「日本の即身仏・ミイラについて」というサイトがなかなかまとまっていました。ここには、 「日本の即身仏・ミイラ一覧表」があり、大変参考になります。

もう一つは、確実性に欠けますが、発見されていない自殺死体を見にいくこと。例えば、富士・青木ヶ原樹海では、2003年だけで100体もの死体が発見されているそうです。写真を見せてくれ、という方のために、「樹海のおとしもの」をリンクしておきますね。

長々と書いてきましたが、いったんまとめておきます。現代社会で見られる死体が自殺死体に限るというのは、まさに養老孟司の主張を裏付けています。つまり、コントロールされた死だけが、かろうじて我々の目の前にあることを許されているのです。

ところで、ちょっと脱線しますが、別に我々の身近に「死体」というものがまったくないわけではありません。確かに、人間の死体は法律上特別扱いされており、日常から隔離されていますが、動物の死体ならごろごろしてるじゃありませんか。えっ? 最近、動物の死体を見てない? やだなあ、我々が食べているものは、すべて生き物の死体ですよ。タマゴはヒヨコの死体です。人間が生きるってのはそういうことです。

さて、養老孟司によれば、死は「現在化」できないものです。我々は、懸命に、未来のために今を生きていますが、しかし、我々の「現在」は、どこまでいっても死をとらえることはできません。どんなライフハックタイムマネジメントも、死を管理することは絶対にできません。

なのに、養老孟司が『死の壁』において語ったように、人間の致死率は100%なのです。必ず、それはやってくる。

いったいどうすりゃいいんだ、と私は叫びます。それに対して、養老孟司は冒頭に引用した文章のあとに、こんなことを書いています。

百年を思うよりも、ただいま現在の状況を徹底的に把握し、それに対して有効な手を打たなければならない。「ああすれば、こうなる」ようにしなければならないのである。(中略)そうした状況を私が批判すると、若者はこう質問する。「先生、じゃあどうしたらいいんですか」。その答えがあるということは、つまり「ああすれば、こうなる」が成立するということである。若者たちが、それを常識としていることが、こうした質問からよくわかるのである。

これは痛烈な一撃です。確かに、養老孟司の言う通りです。「死」という絶対に現在化できないものがある以上、「ああすれば、こうなる」という命題は、成立しない。だから、「どうすればいいのか」という質問も成立しない。確かに、そうかもしれない。でも、そんなこと言われても困っちゃいます。だって、口から出ちゃうんですよ! 「じゃあ、どうすればいいんですか?」って。

さて、ここからは、私の思うことです。

そもそもの過ちはどこにあったのか。それは、「現在」というものを「予定された未来」と考えたことです。「現在」というのは、時の一点です。我々はそこに戻らなければいけないのです。「今」というのは、「今、ここ、この一瞬」です。そう、だから、

未来のために生きるな。今という一瞬のために生きろ。

ここで、つい聞きたくなりますよね。「そういう生き方をすると、どうなるんですか?」って。でも、そういうことを考えてはいけない、という命題なんですよ、これは。だから、この命題には「意義」はないし、したがって「根拠」もない。たとえ、この命題が正しいとしても、正しい理由はない。証明不能です。詐欺みたいな話ですね。でも、たぶん本当に正しいものというのは、そういうものだと思う。

「今」というこの一瞬の中に、「死」はありません。もはや、隠す必要はない。最初からないんです。そして、私はここで、唐突に語ることを中断しなければなりません。この命題は、「語る」ことによってではなく、今を生きることによってのみ、示されるものだからです。そう、今を。