「人一倍」は何倍か、いちにさんし よんさんにいち、言葉という生命

「いち、にー、さん…」と、10まで数えてください。今度は、「じゅう、きゅう、はち…」と、1までお願いします。今、4と7の読み方が変わりませんでしたか? どうしてですかねえ? 今日は、数字を含んだ慣用表現にまつわる小ネタを中心に、言葉という生命について考えます。

 南部に歯取る唐人ありき。或る在家人の慳貪けんどんにして、利簡を先とし、事に触れて、商心あきなひこころのみありて、徳もありけるが、むしの食ひたる歯を取らせんとて、唐人が許へ行きぬ。歯取るには、銭二文に定めたるを、「一文にて取りてべ」と言ふ。小分の事なれば、ただも取るべけれども、心ざまの悪さに、「ふつと一文には取らじ。」と言ふ。「さらば、三文にて、歯二つ取りて賜べ」とて、蟲も食はぬ、世に良き歯をとりそへて、二つに取らせてけり。心には得利と思ひけめども、きずなき歯を失ひぬる、大きなる損なり。これは大きに愚かなる事、をこがましき仕業なり。

『沙石集』より

なかなかこう、身につまされる話ですな。だいたい次のような筋書きです。

あるドケチな男が虫歯になった。歯医者は、歯一本を二文で抜くという。男は、金をもっていたくせに「一文でやってくれ」と値切る。歯医者は、少額のことだしタダで抜いてもやってもよかったのだが、男の性根の汚さに、「絶対に一文では抜かない」と言う。男は、「それなら、三文で二つ抜いてくれ」と頼んで、健康な歯も合わせて抜いてもらった。これで得をしたと思っているが、大損だ。愚かだ、馬鹿だ。

まあ、現代の我々も変なオマケに乗せられて、うかうかと商品を買ったりしますから、この男のことをあまり笑えません。「今なら、万能すのこもおつけして、御奉仕価格1万円!」 ……いや、「すのこ」なんかいらないんだよ、ていうか「すのこ」に「万能」とかついてる時点でおかしいんだよ、気づけよ、……オレ。

ところで、この話は、「二束三文」ならぬ「二歯三文」でして、当時の金銭の価値を考えるなかなか面白い資料になります。『沙石集』が成立したのは、1280年前後とされますので、この当時の三文の価値は「抜歯2本分」ということになります。

現在だと、抜歯の値段というのは、最も安い乳歯で1400円+再診料400円ぐらい(保険なし)のようです。となると、2本抜けば、3200円です。三文というのは、けして安くはなさそうです。

「三文」の価値は、言うまでもなく「早起きは三文の得」の意味に直接かかわります。

2chのコピペに、「良い子の諸君! 早起きは三文の得というが、今のお金にすると60円くらいだ。寝てたほうがマシだな。」というものがありました。私は、この「60円」という数字の出所がずっと気になっていました。

「三文」というのは、「二束三文」「三文文士」「三文判」など、安い値段の代名詞ですが、時代によってはひょっとして大金だったのかも!? もし「三文」に3000円近い価値があるなら、ンなもん明日から早起きしまくりですよ!

これをきちんと調べるには、このことわざがいつ頃成立し、その時代の貨幣価値がいくらかを知る必要がありますが、どうもよく分かりませんでした。例えば、江戸時代の貨幣価値については、「一文と一両の価値」という素晴らしいページがありましたが、「1文=5〜50円」ぐらいでかなり幅があります。

ともかく、こういう、数字が入った慣用表現というのは、面白い話題を提供してくれます。いろいろ例を見ましょう。

「人一倍」という言葉は妙です。「一倍」じゃ変わんないじゃんか、と。調べてみると、江戸時代頃は、「a倍」というのは、「元の数にa倍を足した数」という意味で、「一倍」は「2倍」の意味でした。今でいう「2倍」のことは「二層倍」と言ったそうです。江戸時代の算術書『塵劫記じんこうき』の中に「ひにひに一ばいの事」という項目があり、お米1粒を2倍にしていったら、30日目にいくらになるか、という問題が載っています。なお、答えは、5億3687万0912粒。

塵劫記』はなかなか面白いネタが多いです。九九を言うとき、「ににんがし」のように「が」が入るものと、「にごじゅう」のように入らないものがありますが、どうやって区別しているかご存知ですか? 積を計算した結果が1ケタのときは「が」が入る、というのが答えです。これは、九九を算盤そろばんで計算するときにリズムをとるためです。ちなみに「九九」を「九九」というのは、昔は「九九八十一」から数えていたから、だそうです。

「九分九厘」という言い方があります。「九分九厘間違いない」などと使いますが、考えてみると、「9分9厘」では「9.9%」にしかなりません。これは、江戸時代の小数表記には「割」がなかったためです。つまり「十分」で100%、文字通り十分だったのです。これで、「村八分」「一寸の虫にも五分の魂」「五分五分」などの意味がいっぺんに説明できます。

「一本、二本、三本」は「いっぽん、にほん、さんぼん」と読みますが、これはなぜでしょうか。ずばり「なぜ「いっぽん、にほん、さんぼん」なのか?」を考察したサイトによると、日本語では昔「は行」を「ぱ行」で発音していた(「ひよこ」は「ぴよこ」でした!)名残りと、連濁(三日月みかづきなど、合成語の下の語が濁る現象)が重なったためのようです。

井上ひさし日本語観察ノート』に面白い問題が出てきます。1,2,3,4…と数え上げるとき、「いち、にー、さん、し、ごー、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう」と数える人が多いでしょう。では、数え下げるときは? 「じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ごー、よん、さん、にー、いち」ではないですか? 4と7の読み方が変わっています。

井上ひさしによると「わたしたちはふだんの生活の中で数え上げることをよくする。そこで、『しー』『しち』という漢語風の言い方に慣れている。ところが数え下げるカウント・ダウンのはまれで、慣れていない。そこで『なな』『よん』という大和言葉風な生地きじが現れるのだ」とのことです。私には、あまりピンときません。

この問題に対する定説はないようですが、私は、高杉親知さんのサイトにある「日本語の数体系」における考察に説得力を感じました。まず、「四」「七」はかつて「し」「しち」とのみ読まれていました。しかし、「四」を「し」と読むのは、「死」などに通じて紛らわしいので「よん」に、また、「七」を「しち」と読むのは「いち」と紛らわしいので「なな」に置き換えられました。

ところが、「いち、に、さん、し…」という読み方は、既に「決まり文句」になってしまっているため、このまま保存されました。一方、カウント・ダウンをすることは日常ではあまりありません。ですから、慣用的な読み方にとらわれず、合理的な読み方になる、というわけです。

なるほど、確かに熟語として読み方が固定されている場合は、「四」は「し」と読みます。例えば「四十九日しじゅうくにち」、「四十七士しじゅうしちし」などですね。ところが、例えば「四十七人」を読め、と言われたら、ほとんどの人は「よんじゅうななにん」と読むでしょう。

ちなみに、上記リンク先、高杉親知さんのサイトには、日本だけでなく「世界の言語の数体系」もあります。私は、フランス語の記数法(例えば、97をquatre-vingt-dix-sept 4×20+10+7と表す)にうんざりさせられたクチなのですが、そのフランス語も複雑さでは世界19位とされています。1位のフリ語は15進法、2位のンドム語は6進法を基本にした数体系です。おそれいりました。

さて、こうして、いろいろ見てきましたが、これらの言葉たちから共通して分かることがあります。それは、言葉はタイムカプセルである、ということです。古い時代の思考や習慣を閉じ込めて、現代に伝えてくれるもの。それが言葉です。このような文化財としての言葉の役割は、なかなか無視できません。

このタイムカプセルとしての言葉がどう働くか考えたとき、実は言葉には二つの相反する機能があることが分かります。

まずは、当然ですが、概念を保存する働きです。しかし、もし言葉が未来永劫変化せず、昔ながらの姿であり続けるなら、そもそも「早起きは三文の得」という言葉は生まれなかったでしょう。この言葉は、貨幣経済が定着し、労働が美徳となった時代のことわざでしょう。すなわち、その時代の変化を取り入れて新しい言葉を生み出す働きも、また言葉の本質です。

恒常性ホメオスタシス新陳代謝メタボリスム。それが両方そろって初めて言葉は躍動します。これは生物に要求される働きといっしょです。その意味で、言葉が生き物だ、というのは実に納得のいく話です。

しかし、言葉とはおそるべき構造体です。細部を常に変化させつつ、しかし全体として統一された構造としてあり続ける。私自身の身体や意識がまさに同じことをしているわけですが、そこに何が起こっているのか激しく興味をもちます。そして、ニューロンのネットワークから意識が生まれたように、どこかに日本語の「意識」が生まれることはないのか。

とはいえ、今日は言葉にまつわる小ネタ中心の軽い更新にするつもりでした。あまり大風呂敷を広げずに、このへんでシメとさせていただきます。