ギャンブルに「流れ」はあるか、物語を作る生き物、煮つめられた人生

例えば、麻雀をやっていると「ツイてる」とか「ツカない」という感覚に襲われることがあります。「流れ」。はたして、そんなものは存在するのでしょうか。今日は、人間に「流れ」が見えてしまうことの意味について考えます。

 賭博とばくという、冷静に考えれば損にきまっている遊びが、しばしば人々を夢中にさせるのは、そこにいわば煮つめられた人生があるからでしょう。
 偶然というか、運というか、あるいはつきとよぶか、ともかくそれを支配する、眼にの見えぬ何かにいどみ、金銭というはっきりした形で勝ちをしめようとするとき、人は人生の大事を決行するときに似た、戦慄せんりつと快感を味わうはずで、この日常生活では得られぬ充実した生の感覚が(たとえ本当は偽物であっても)賭博の最大の魅力なのでしょう。

中村光夫『知人多逝』

まずは次のサンプルデータを見てください。これは、○と●がほぼ同数出現するように、乱数を使って作成した200個のデータです。101個の○と、99個の●を含んでいます。

【サンプルデータA】

○○●○○●○●●●○○○○●●●○○○●○●○○○○●●○●○○●○●○●●●○○●○●●○●○●●○●●○○○○●●●●●○●○●○○●○●○●○○●○○●●○●○○●●○●●○●○○●●○●○●○●○●●●○●●○●○●○●●○●●○●○○●○○○○○●●○○●○●○○●○●○○●●●○○●○●●○●○●○○○●○●○○●●○●●○●○●○○○●○○●○●○○●●○●○●○●●●●●○●○●

○や●に大きな偏りがなく、まんべんなくバラけているのが見てとれると思います。これは今日の話の基点となるデータなので、よく観察しておいてください。

さて、今日のテーマは、ギャンブルに「流れ」はあるか? です。

ここでは、「流れ」という言葉を、「ある現象が極端に連続すること」というような意味で使うことにします。例えば、先ほどのデータで言うと、○や●が連続で出現するような現象ですね。上のデータはプログラムによって作成したので、極端な好調も不調も見られませんが、現実にはどうなのか? ということです。

「流れ」という言葉は、ギャンブル、例えば、麻雀でよく使われます。麻雀漫画の至宝、片山まさゆきノーマーク爆牌党』から例を取りましょう。この劇中で、主人公が「流れ」について論じているシーンがありました。

主人公は、次のように語ります。赤と緑のビーズ玉をよく混ぜてビンに入れる。このとき、赤と緑は、きれいに混ざるだろうか? いや、ところどころに「ダンゴ」ができるはずだ。その色のかたまりこそが「流れ」であり、自分がどの「かたまり」の中にいるかをつかむことが「流れ」を読む、ということである。

なるほど、「色のかたまり」=「流れ」ですか。

そのことを具体的に考えてみるために、さきほど見たデータAから少し生成ルールを変更してつくったデータBを見てください。こちらにはちょうど100個ずつの○と●があります。

【サンプルデータB】

○○●○○●●●●●●●○●●●○○●○●○○●○●●●○●●○●○●○○○○○○○○●○●○●○○○●●●●●○●●○○●●○○●○○○○●○●○●●●○○●○○○●○○○○○○●●○○○●●●●●●●●○○○●○○○●●●○●●●○●○○○●●●●●○○●○●●●○●●○○○●○●●○○○●●●○○●●●○●●○○○○○●○●○○○●●○●○●●●●●●○●○●●○○○○●○●○●○●○●○○

データAと比べて、こちらのデータBのほうには、かなり明確な「流れ」を感じると思いますが、いかがでしょうか? ぱっと見て、「連勝」や「連敗」がとてもたくさん現れていると感じるでしょう。じっくりながめて、「好調期」や「不調期」などの「偏り」を探してみてください。

では、この「色のかたまり」はどうして生まれたのか?

タネ明かしをしますと、さっき見たデータは、わざと「前のデータの影響を受ける」ような乱数を使ったんですね。直前が○●のどちらなのかによって、次に出る○●の確率が変化するようにしたのです。だから、データBは、データAに比べて「流れ」がはっきりあるように見えるのです。

要するに、非常に偏った、通常ではありえない配列だったのです。データAは。

え? 書き間違い? 「偏っていたのはデータBだろ」ですって? いや、間違ってないですよ。偏っていたのは、データA、最初に見たほうです。

最初に見たデータAは、直前が○だと次は●の出現確率が高くなり、逆に直前が●だと次は○の出現確率が高くなる、すなわち、「流れ」をわざとぶった切るような法則で作成したデータです。一方、あとに見たデータBのほうは、単純に2分の1の確率で○と●が出現している、真の意味でランダムなデータ列です。

ここで、「えー!?」という反応があると嬉しいのですが、ど、どうでしょうか? わざと紛らわしい書き方をして、すいませんでした。でも、嘘は書いていませんよ。

ちょっと言葉を一個、定義しますね。データ列の中で、「○のあとに●」または「●のあとに○」が来たとき、「チェンジ」と呼ぶことにします。ランダムデータの場合、チェンジする確率は当然2分の1です。200回のデータ列の場合、チェンジが生じる可能性がある場所は、全部で199箇所あります。

データAでは、129回のチェンジが行われています。2分の1の確率で生じる出来事が、199回中129回以上起こる確率は、およそ0.0015%です。最初に見ていただいたサンプルAは、そのぐらいありえない偏りをもったデータなのでした。ここまで、「流れのない」データが偶然発生するのは、奇跡に近いです。

一方で、データBのチェンジの回数は、101回です。ほぼ理論平均値通りです。要するに、データBは、「流れ」のあるなしで見た場合、完璧なまでに平均的なデータなのです。

ところが、多くの人は、データAのほうが、データBより「まんべんなくバラまかれている」「ランダムである」と感じると思います。ちなみに、聞くところによれば、人間に手でランダムなデータ列を書かせると、データAに近いものを書くそうです。

さて、いったい何が起きているか? ここで生じたことを一般化して書けば次のようになるでしょう。

人間は、ランダムなデータに偏りを見る生き物である。

要するに、人間は、ただのランダムなデータ列を見ると、そこに「流れ」を読んでしまう、ということです。

「最近、〜を見ることが多くなった」という感慨を、我々はよくもちます。そのうちのいくつかは真実であるかもしれませんが、実はほとんどは単なる偶然の偏りなのかもしれません。なにを馬鹿な! 明らかに、〜が増えているだろうが! そうでしょうか? 我々は、単なるランダムデータに「流れ」を見てしまう生き物なのです。なんか、自信がもてません。

では、最初の質問の答えはどうなるのでしょうか? 「流れ」ははたして存在するのか? 私の答えは、「イエス」です。「流れ」は存在します。

存在するに決まってるじゃないですか。だって、実際みなさんにも「見える」でしょう。もう一度、データAとデータBを見てください。明らかに、データBには「流れ」が「見えます」。見えるものは存在するに決まってます! サンタですら存在するのですから、「流れ」が存在しないわけがありません。

では、なぜ、人間には「流れ」が見えるのでしょうか?

さきほどのデータBには「8連勝」(○の8個連続)が1回登場します。「ある8回中に○が8個続く確率」は、256分の1ですから、これは発生確率0.4%程度の大きな「偏り」です。自分の高校が甲子園でベスト16になるぐらいの確率です。

それでは、「200回中に○が8個続く部分が1回でもある確率」はどのぐらいでしょうか? 計算機に10万回ほど実験させてみたところ、およそ32%ぐらいのようです。別にめずらしくもなんともない出来事でした。

さらに、そもそも数学的には、「8連勝」する確率も、「○●○○●○●●」というパターンになる確率も別に違いはありません。ただ、人間の側が「○○○○○○○○」というならび方を特別あつかいしているだけです。

すなわち、人間に「流れ」が見える、ということの意味は、人間には、この「8連勝」という「特別な」出来事を、200個ならんだデータ列の中から一瞬で見つけだす力がある、ということに他なりません。

この能力。ランダムに発生する大量の出来事の中から、ある一部分を切りとり、それに意味づけをする能力。これは「物語をつくる」能力といえるのではないでしょうか。すなわち、さきほどの主張は次のように書き直すことができます。

人間は、物語を作る生き物である。

したがって、「流れ」はあるか? という質問は、つまるところ、こう聞いているのと同じです。「物語」はあるか? そんなもんあるに決まってます。我々人間にとって、世界とは、単なる事実の集積では断じてない。それは、無数の「物語」によって意味づけされて、初めて世界となるのです。

ですから、「流れ」を読めば麻雀の勝率が上がるのか? などという問いは愚問です。我々は、勝つために「流れ」を読んでいるのではなく、「物語」をつくろうとして「流れ」を読むのです。いや、あの、勝つために「流れ」を読んでいる人もいらっしゃるようですが、その、なんというか、えー、がんばってください。

ところで、もし「流れ」を読むことが、「物語る」ことであり、それが「出来事の中から、一部分を切りとり、それに意味づけする」ことであるという私の考えが正しいのであれば、「流れ」は過去にのみ存在するということになります。

「流れ」は常に過去形で語られる、ということです。キーワードは「やっぱり」です。

さて、「麻雀における流れ」というネタでは、やはり、この方を紹介しないわけにはいきません。麻雀研究家、という肩書きでいいんですかね、とつげき東北さんです。そのHPは、麻雀に強くなりたい方は必見。とりあえず一つだけ読むなら「最強水準になるための麻雀講座:技術的精神論」を推します。

とつげき東北さんの著書『科学する麻雀』のあと書きにこんなことが書いてあります。いわく「『ムダなものにいかに全力を注ぐか』が人生においてもっとも大切なことである」。

『科学する麻雀』というタイトルで想像できると思いますが、この人は「麻雀に流れなんてない」という立場です。そういう、一見バリバリの合理論者、麻雀戦術書に数式が飛びかっているような人が、なぜこんなことを書くのでしょうか。

私はこんなふうに思います。意味づけをする、物語をつくることは、対象が「ムダなもの」であればあるほど楽しいのです。彼は、いわゆる「流れ」という凡庸な物語では満足できず、麻雀を使った、もっと豊かな物語をつくろうとしたのだ、と。

要するに、我々が「生きる」というのは、つまるところ「物語をつくる」ということなのではないでしょうか。だから、冒頭に引用した文章で中村光夫は、賭博の魅力を「煮つめられた人生」「充実した生の感覚」と呼んだのだろうと思います。そういう意味では、ランダムな配列に「流れ」を読んでしまう、というのは、人間の一つのいとおしさではないかと、私には思われます。