明日どうやって死ぬか、死にたくなければ表出ろ、死ぬ理由はいらない

平均的日本人が、病気以外で明日死ぬとしたら、どのような死に方の可能性が高いか? これ、かなり意外な結果になります。なぜ我々の死についての思考パターンはこんなに狂ってるんでしょうか。今日は、死ぬのに理由なんてないほうがいいよね、ということについて考えます。

 竜夫は家に帰ると井戸水を腹一杯飲んだ。そして押し入れの中に潜り込んだ。なぜそうしているか、自分でも判らなかった。襖を閉ざして、狭い押し入れの中に身を屈め、隙間からこぼれてくる光を睨んでいた。
 おとなになっても、ほんとの友だちでおるちゃ。
 関根の声が暗闇の中から聞こえてくるような気がした。自分も一緒に釣りに行っていれば、関根は死ななかったろうかと思った。体を左右にくねらせながら、古びた自転車を懸命にこいで道の向こうに消えていった関根のうしろ姿が竜夫の胸に浮かび上がってきた。竜夫は自分以外には誰もいない家の押し入れに身を隠していつまでも座り込んでいた。

宮本輝蛍川』より

今日の引用は宮本輝芥川賞受賞作『蛍川』。竜夫が、友人関根圭太の死を知る場面です。死んだ圭太は前日、父親と、自分の進路をめぐって対立、家出をしていました。そして、その夜、用水路に転落、溺死します。

人間の死因というものはさまざまです。死亡診断書 (死体検案書) 作成マニュアルという、ちょっと面白い資料によると、人間の死に方には次のようなものがあるようです。

まず、病死または自然死(老衰)が当然あります。次に外的要因による死として、事故死、転落死、溺死、焼死、窒息死、中毒死、その他の事故死。そして、人間がかかわるものとして、自殺、他殺、珍しいところで、戦死、刑死。

さて、このような多様な死に方の中で、病気以外のものについて考えます。言いかえれば、今日あんなに元気だったあなたの友人が、明日死ぬとしたら、どのように死ぬのが最も可能性が高いのでしょうか?

なんで友人殺すんだよ? 自分が死ねよ、と思うかもしれませんが、「されど、死ぬのはいつも他人」(マルセル・デュシャンの墓銘碑)。我々にとって、他者の死のほうがリアリティがあるのではないでしょうか。実際、私も以下に紹介するような死に方に対して、「自分はこんな死に方しない」という気持ちを抑えることはできませんし。

さて、同じようなことはたぶん誰かがもう考えてくれていることでしょう。というわけで検索してみますと、こんなページがありました。「治安が「あぶない」は「あぶない」」。桐蔭横浜大学法学部教授の河合幹雄が、マスコミが過剰に注目する死因と、現実の死者数を比較して、不合理なリスク認識に警鐘を鳴らしています。面白いです。一読をお薦めします。

2003年のデータに基づいた議論ですが、今でも実状に大きな変化はなさそうです。簡単に内容を紹介しておきます。

まず、日本における1年間の死者数のうち、病気と老衰を除く外因死は約7万5000人。このうち、自殺者数3万2000人に対して、他殺は約700人。自殺者が多い、というのは誰でも知っていますが、外因死の半数近くとは恐れ入りました。

脱線ですが、かつて五木寛之は、この膨大な自殺者があふれる状況を「こころの内戦」と呼びました。ものごとの本質をすぱっと言葉で表現する、まさに作家の仕事と言えます。もっとも、人口が日本の3分の1足らずのスーダンでは、ダルフール紛争によって、3年間で既に18万人の命が失われたとされています。「本物」は違う、という感じでしょうか。

河合幹雄の議論に戻ります。自殺を除いた事故死のうち、交通事故が非常に多いのもよく知られていると思います。現在ではもう少し減っていますが、2003年の時点では年間1万人を越えていました。ところが、驚くべきことに、交通事故よりも、家庭内での事故死のほうが多いのです。年間1万2000人が家庭内で死んでいます。風呂場で、食物をのどを詰まらせて、転倒・転落で、それぞれ2000人以上の死者があります。個人的にはけっこう驚きました。道歩いていて車に轢かれるよりも、自宅で事故死する確率のほうが高いんですよ?

河合幹雄はさらに、約700件の殺人事件のうち、過半数は家庭内の殺人、多くは心中であろうと推測しています。さらに恋愛絡みの殺人を除くと、マスコミが煽り立てるような「自分の側に原因のない」殺人事件は、年間20〜30件であろうと述べます。この年、ハチに刺されて死んだ人が27人いましたので、「安全対策論としては、先にハチからはじめるべきであろう」という河合の言葉も、あながち冗談ではないかもしれません。

こうしてみると、我々が注目する死に方と、現実に高いリスクをもつ死に方には、かなりのズレがあるようです。

今度は、いわゆる狂牛病のリスクについて考えてみます。ちょっと復習しますが、「牛海綿状脳症BSE)」という牛の病気がありまして、これが人間に感染して起きるのではないかと疑われているのが「変異型クロイツフェルト・ヤコブ病vCJD)」でした。

政府見解では「全頭検査以前のBSEプリオン摂取による我が国全人口(1億2000万人)におけるvCJD患者の発生数は0.1人〜0.9人」とのことです。全頭検査にかかる費用ですが、31億円と記載されたページがあります。さすが日本は豊かな国です。人間1人(未満、ですが)を助けるために30億円出せるのですから。アフリカ人だったら30万人ぐらい助けられそうな気がしますが。

さて、このvCJDですが、わざわざ「変異型」とつけていることからも分かるように、ただの「クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)」も存在します。vCJDもCJDも、もちろん基本的に同じような症状の病気です。で、この「クロイツフェルト・ヤコブ病」ですが、日本では1年に人口100万人に1人の割合で自然発症します。原因は不明です。

ここで、ちょっと立ち止まって考えたいのですが、我々は、vCJDとCJDのどちらを怖れているのでしょうか? マスコミ報道を見れば一目瞭然です。vCJDのほうが怖いです。

これ、しかし、冷静になって考えると滅茶苦茶です。年間120人程度自然発生する病気よりも、それと同じ症状で年間1人出るか出ないかの病気のほうが怖いってんですよ? 我々は何考えてんでしょうか。

しかしですね。確かに、年間12000件もある家庭内の事故死よりも、年間700件もない他殺による死のほうが、絶対に避けたい、と思います。また、年間120人自然発生するCJDよりも、年間1人出るかどうかのvCJDのほうが怖い、と思います。これはどちらも我々にとっての真実であるのではないでしょうか。

確率論なんて知ったこっちゃない! オレは牛丼食って死ぬのが怖いんだ! と私のソウルが叫んでおりますが、みなさんはいかがでしょうか。

まったくもって、アホな思考回路です。生物なんだから、自分が生き残る確率を最大にする行動とったらいいじゃないか。たぶん、狂牛病で縮む寿命よりも、良質な牛タンパク質を摂ることで延びる寿命のほうが大きいでしょ。

しかし、私は思うのですが、人に殺されるとか、牛肉食ってvCJDにかかるとか、そういう死に方を我々が嫌悪するのは、そこに憎むべき相手がいるからだと思うんですよ。例えば、自分の子供を誰かに殺されたら、犯人を憎まなきゃいけないじゃないですか。「憎まなきゃいけない」という言い方はすごく変ですけど、他に言い方が見つからない。

交通事故で死ぬのは殺人とどう違うんだろうと考えたとき、たぶん交通事故の「犯人」というのは、運転手じゃないからです。それは「車社会」とか「不注意」とかであって、人格をもつものではない。狂牛病で死ぬのが怖いのは「牛丼を食べちゃった自分」とか「対策を立てなかった政府」とか、具体的に恨みの対象があるからです。

老衰が理想の死に方だ、なんて本当はおかしい。どう死んだって死は死です。でも、老衰には責任者がいないんですよねえ。死ぬ理由がない。確かに、これが一番、幸せな死に方だと思う。

冒頭に引用した『蛍川』ですが、この場面の直後、死んだ関根圭太の父親は、発狂します。自分が前日に息子と口論したことが、息子の死のきっかけとなったのではないか、という自責の念にかられたからです。主人公竜夫も「自分も一緒に釣りに行っていれば、関根は死ななかったろうか」と考えてしまっています。

だれかが死ぬのに理由なんてないほうがいい。たぶん、なんでもそうだと思います。一番強い「愛」というのは、その人を愛する理由が何もないときの愛だと思う。「どうしてそうなの?」と聞かれたとき答えられないものが、一番いいものなのではないでしょうか。