行百里者半於九十、パレートの法則なんか糞くらえ、天才の行く道

百里の半ばを九十九里とするグラフ

芥川龍之介は、天才の一歩を理解するためには、「百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ」と書きました。いったいこれはどういうことか? 今日は、意外な有名法則も飛び出しつつ、それを蹴散らす天才の行く道について考えます。

天才とはわずかに我我と一歩を隔てたもののことである。ただこの一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。

芥川龍之介侏儒の言葉』より

日本のアフォリズムの頂点に立つ『侏儒の言葉』です。『侏儒の言葉』は青空文庫で読めるので、一読をお薦めします。

冒頭に引用した文章は、比較的有名な分類に属すると思います。言うまでもなく、『戦国策』の「行百里者半於九十(百里を行くものは、九十を半ばとす)」をふまえたものでしょう。『戦国策』では、この言葉のあとに「此言末路之難(これ末路の難を言ふ)」と続き、あと少し残った道を完走することの困難を言った言葉です。

しかし、芥川のこの警句は、分かったようでよく分からぬ言葉です。なぜ「百里の道を九十九里とする超数学」が「天才」と結びつくのでしょうか?

原文の「百里を行くものは、九十を半ばとす」は非常に含蓄に富んだ教えですが、その意味は明確に思えます。例えば、文章中から100個の誤植を発見するとき、最初の90個を見つける手間と、最後の10個を見つける手間はほとんど同じだ。だから、90個見つかったからと言って、油断するなということでしょう。まあ、さすがに、古代中国人というのは偉大ですな。現代のプロジェクト管理にもつながるような言葉です。

では、これがなぜ「天才」とつながるのか? ちょっと細かい数字の話になりますが、おつきあいください。

まず、仕事全体を1とします。また、この仕事を終わらせるためにかかる時間も1とします。「百里の半ばを九十九里とする」というのは、仕事全体の0.99が終わったとき、ようやく仕事は折り返し点についた、つまり時間は0.5だけ経過した、ということです。

これを残り作業量、残り時間で考えてみると、残り仕事量が0.01になったとき、残り時間は0.5だということです。

ところで、昔の中国では「1里」は約500mにあたるそうです。日本の「1里」とは長さが違います。しかし、別に、だからといって、この「百里の半ばを九十九里とする」という言葉の意味が変わるわけでもないでしょう。ということで、この言葉の言わんとするところは、単位によらないと考えます。すなわち、「残り仕事量の99%を片づけるのに、残り時間の半分がかかる」という意味だと考えましょう。

さて、話を続けます。残り時間0.5で、残り仕事量0.01を片づけるわけです。残り時間の半分の0.25を費やすと、残り仕事量の99%が片づきます。というわけで、残り時間0.25の時点で、残り仕事量は0.00001になっているはずです。以下同様に、残り時間がそれまでの1/2になると、残り仕事量はそれまでの1/100になります。分数で表すと、次のようになります。

  • 残り時間1/2のとき、残り仕事量1/100。
  • 残り時間1/4のとき、残り仕事量1/10000。
  • 残り時間1/8のとき、残り仕事量1/1000000。
  • ……。

高校で対数関数を勉強した人は、この関係が式で書けることに気づくでしょう。残り時間をt、残り仕事量をwとしたとき、\log_{2}t=\log_{100}wですね。この関数のグラフを記事冒頭に貼り付けておきました。ただし、グラフは「残り時間」ではなく「経過時間」で描画しています。

さて、この式からけっこう面白いことが分かります。tに0.8を代入してみるのです。tは残り時間ですから、これは作業時間の2割を費やした状態になります。このとき、wはいくつになるかといいますと、約0.227です。wは残り作業量ですから、これは全作業のうち約0.773が終了したということになります。約8割です。

つまり、2割の時間が過ぎた時点で作業の8割が終わる、ということです。これはパレートの法則じゃないですか! 成果の8割は費やした時間の2割によって生み出される。なんてこった。偶然にしても絶妙すぎです。

話を進めましょう。落ちついて、もう一度、残り時間と残り仕事量の関係を見てみます。

  • 残り時間1/2のとき、残り仕事量1/100。
  • 残り時間1/4のとき、残り仕事量1/10000。
  • 残り時間1/8のとき、残り仕事量1/1000000。
  • ……。

ここで、「仕事が減っていく速さ」を計算してみます。例えば、残り時間1/4で、残り仕事量1/10000ということは、時間1あたり、仕事が4/10000しか減らないということです。計算してみると、この「仕事が減っていく速さ」は、時間とともにものすごい勢いで鈍くなっていきます。数字の話だと分かりにくいかもしれませんが、要するに、仕事が後半になればなるほど、「やってるわりに進まねー」という状態になるということです。前掲のグラフを見ていただければ、直観的には明らかだと思います。

さて、いったい芥川の言う「天才」とは何なのか? 一つのヒントがここにあります。「百里の半ばを九十九里とする」世界においては、仕事はあるところから、ほとんど進まなくなってしまうのです。グラフを見ていただければ、作業時間の半分を過ぎたあたりから、仕事が止まったように見えることが分かると思います。この時点で99%完成しているのですから、当たり前です。

そして、仕事が完成する瞬間、速度は理論上、ゼロになってしまうのです。

ルービックキューブは、完成する数ステップ前まで、ごちゃごちゃに見える。」と言ったのは、ポール・グレアムでした。このような完成前の不毛さに、成果ゼロの極限状態に耐えられる人間を「天才」と、芥川は呼んだのではないか。

今回、はからずも出現したパレートの法則も教えるように、2割の労力で8割の効果をあげるのが「費用対効果」の面では最適です。また、凡人にしてみれば、99%完成すれば、それで十分過ぎるほどでしょう。

しかし、残りの1%が天才と凡人を分かつ、ということだとすれば、天才というのは、こう、実にしんどい生き方だなあ、という感じです。他人から見たら、何にもしてないように見える時間をえんえんと重ねなければならないのです。

しかし、100%と99%がまったく違うのも確かです。私も一生に一つぐらいは、「100%の作品」を残してみたいと思う。その道には、長く、不毛な、まるで成果の見えない時間が必ずあるけれど、でも、そのはてしない「一歩」の先に、「天才」はあるのです。