蛇足は蛇足ではない、ヘビのふともも、空を駆ける七色のヘビ

ヘビに足を描くのは、本当に余計なことなのでしょうか。ヘビなんてものを絵を課題にしたのはなぜでしょうか。そもそも、ヘビに足があってはいけないのでしょうか。今日は、「蛇足」という故事成語のあれこれを考えます。

 楚に祠(まつ)る者あり。其の舎人(しゃじん)に卮酒(ししゅ)を賜ふ。舎人相謂ひて曰はく、「数人にて之を飲まば足らず、一人にて之を飲まば余り有り。請ふ地に描きて蛇を為(つく)り、先(ま)ず成る者酒を飲まん。」と。一人の蛇先ず成る。酒を引き且(まさ)に之を飲まんとす。乃(すなわ)ち左手もて卮を持ち、右手もて蛇を描きて曰はく、「吾(われ)能(よ)く之が足を為る。」と。未だ成らざるに、一人の蛇成る。其の卮を奪ひて曰はく、蛇固(もと)より足無し。予安(いずく)んぞ能く之が足を為らん。」と。遂に其の酒を飲む。蛇の足を為る者、終(つ)ひに其の酒を亡ふ。

戦国策』より。

今日の引用は、「蛇足」(余計なことをすること)の語源として大変有名なエピソードです。現代語にしておきます。

楚の国にいた司祭が、部下たちに酒を与えた。部下は相談して「数人で飲めば足りないし、一人だと余ってしまう。ここは、地面に蛇を描いて、最初に完成したものが酒を飲むことにしよう」と決めた。一人の蛇がまず完成した。そいつは酒を引きよせて飲もうとしながら、左手に杯を持ち、右手で蛇を描き続けて「オレは足まで描けるぞ」と言った。それがまだでき上がらないうちに、別の一人が蛇を完成させ、杯を奪って「蛇にはもともと足なんかないじゃん。お前、蛇の足を描けんのか?」と言って、結局その酒を飲んでしまった。蛇に足を描き足した者は、とうとう酒を飲めなかった。

さて、この話、私には腑に落ちないところがあります。ヘビに足を描いてしまった人が酒をもらう権利を失ってしまうのは、筋が通っているのでしょうか?

そもそも最初の約束では、「先ず成る者酒を飲まん」ということだったはずです。この「成る」という言葉を文義通り解釈すれば、最初にヘビの絵を完成させた人が、その瞬間に酒を飲む権利を得るということです。ですから、その後に自分の絵に何をしようが、別に問題になることはないのではないでしょうか。たとえていうなら、サッカーで勝利して、試合後に喜びのあまりボールを手でかかげたら、ハンドをとられて試合を無効されたようなものです。理不尽極まりない話です。

この「成る」という語句を「作品として形をとどめ、他人の鑑賞に耐えるようにすること」と強い意味に拡張解釈するのは無理があります。「芸術が永遠に残るものである」などという戯言は、100年近く前にダダイズムによって否定されたわけですが、それはともかく、舎人たちはヘビの絵を地面に描いているわけで、もともと作品が完成後長期間残るなどとは期待されてはいないでしょう。

というか、もっと根本的な問題として、ヘビにはもともと足があります。

ヘビの進化は謎が多いのですが、トカゲの足が退化してヘビになったという説が有力です。最近、白亜紀後期の地層から、後ろ足をもつヘビの化石が発見されています。現在でも原始的なヘビには後ろ足と脊椎をつなげる骨格が残るものがいます。ニシキヘビの仲間には大腿骨(ふとももの骨)すら残っているものもいるとか。となれば、ヘビに足を描いて何が悪いという気がしてきます。

ところで、「ヘビ」と名がつく動物で手足をもつものがいます。「カナヘビ」がそうです。トカゲ目カナヘビ科のトカゲたちは、「アオカナヘビ」「コモチカナヘビ」などヘビとしか思えない名前のくせに、見た目はばりばりトカゲです。「蛇足」の中の人もツッコミが入ったときに、「これはカナヘビだ!」と強弁すればよかったかもしれません。まあ、日本語は通じないと思いますが。

さてここで、なぜヘビの絵が選択されたかを考えておきましょう。

一見、絵の課題としてヘビというのは解せないところです。特に今回は地面の上に絵を描くわけですから、複雑な意匠を描きこむことは難しいでしょう。線を1本引いて「ヘビです」と言い出すやつが現れたら、どうするつもりだったのでしょうか。

ヒントは、彼らの主人が「祠(まつ)る者」であるということです。また、蛇神信仰が世界各地にあることはよく知られています。すなわち、ヘビという選択には呪術的な意味があると考えられます。蛇神信仰は竜神信仰と深いつながりがあります。竜には言うまでもなく手足があります。ヘビに手足を描いた図を見れば、その体長のバランスから、たいていの人はトカゲよりも、竜を連想するはずです。

呪術的な意味をもつ蛇の絵としては、例えば、グノーシス派の図案である「ウロボロスの環」があります。自らの尾をくわえた蛇や竜の意匠ですが、Googleでウロボロスをイメージ検索してみると分かるように、手足のない蛇であるか、手足のある竜であるかは、半々ぐらいです。霊的な力の源泉としては、蛇も竜も同等に扱われているのです。

竜の指の本数は国ごとに決まっています。最高位である五爪の竜は、中国の皇帝のみに許され、四爪は朝鮮など近隣諸国、三爪は日本などさらに周辺の国々で描かれました。ということは、蛇に手足を描き加えて竜に近づけるというのは、その霊的な力を高めることになるかもしれません。それは、主人である「祠る者」の意に沿うことであり、なんら責められることではないと思われます。

してみると、「ヘビに足を描いたから失格」などという輩は、自分が酒を飲みたいがための屁理屈であったと言えるでしょう。

実は、この「蛇足」が登場する話自体が屁理屈としか言えない話なのです。「蛇足」は『戦国策』にこんなふうに登場します。楚の将軍、昭陽(しょうよう)が、斉を攻撃しようとしていました。そこで斉の閔王(びんおう)は、陳軫(ちんしん)を遣わし、昭陽を説得しようとします。陳軫は、昭陽が既に宰相の地位にあり、これ以上の戦果があっても昇進できる地位がないことを指摘して、この「蛇足」の話をし、昭陽に開戦を翻させるのです。まったく、屁理屈としか言いようがない話ですね。この論理が正しいのなら、国の最高位である王様は、だれも戦争をしないということになってしまいます。

だいたい、ヘビにない足を描いたから悪い、などと考えること自体、想像力の貧困です。

蛇をかたどった象形文字が漢字にはあります。「虫」です。虫という字は、大きな頭と、曲がった尾のヘビを描いた字で、転じて動物の総称として使われました。そのため、「虫」がつくのに「虫」でない動物、牡蛎(かき)、蝦蟇(がま)、蟹(かに)、蛙(かえる)、蛸(たこ)、蛤(はまぐり)、蛭(ひる)、蛞蝓(なめくじ)、蜆(しじみ)、蜥蜴(とかげ)、蝙蝠(こうもり)などがいるわけです。「虹」という空を駆ける七色のヘビまでいるのです。この「虫」すなわちヘビの豊穣なイメージの精神史に思いをいたせば、ヘビに足を描いた人は、漢字という宇宙を創りあげた古代中華民族の正しく末裔なのであり、非難される筋合いなど寸毫もありません。

星の王子さま』の冒頭の挿話は有名です。王子さまは、象を飲みこんだヘビの絵を描いて大人に見せましたが、大人たちは帽子の絵としか見てくれなかったという、大人の想像力の貧困をつく話です。まったく、王子様の描いた絵に比べれば、ヘビに足があるぐらいなんだというのでしょう。その程度でガタガタいうのは、おのれの想像力の欠如を吹聴しているようなものです。

「蛇足」のような話を聞いて、「やっぱり余計なことなどするものではないのだ」という前例主義に昇華させ、それを疑いもせず受け入れて唯々諾々としているところが、実に我々は日本人ですな。「課題をきっちりこなした上で、そこに独創的な付加価値を加える」。「蛇足」上等だと思いますが、どうですか。