洞ヶ峠・桶狭間山・本能寺、事実と物語の座標軸、歴史をつくる

桶狭間は本当は山だった!? 戦国時代の有名エピソードには、「洞ヶ峠の順慶」や「敵は本能寺にあり」など、つくり話がけっこうあります。今日は、歴史というものに相対するとき、我々はどんな態度をとるべきなのかを考えます。

「じつは私は、順慶のことを調べているのですが」と、おれはあわてて主人にいった。「順慶がここへ来て日和見をしたというのは、あれは俗説なんですよ。信用できる史料には、そんなことはぜんぜん出ていません」
 主人は急に不機嫌になっておれをにらんだ。「あんた、順慶のことを調べて、どうするのかね」
「小説に書いて週刊誌に連載します」
 主人の顔色が、さっと変わった。「そんな出たらめを、ほんとに書く気かね」
「出たらめじゃありません」主人の眼つきのすごさにぞっとしてふるえあがりながらも、おれは説を曲げなかった。「順慶は山崎の合戦の最中、ずっと郡山こおりやま城にいたんです。これは当時の古文書、日記、手紙類によって確実であることが証明されています。彼はこのほらヶ峠へは来ていません」
「馬鹿をいいなさい」主人は無理をしてせせら笑おうとしたがみごとに失敗した。自分でもそれがわかったらしく、そのためますます腹を立て、いうことがだんだんむちゃくちゃになってきた。

筒井康隆筒井順慶』より

こうやって断章だけを切り取ってもしっかり筒井康隆です。この作家が入試問題に採用されるのは当然のごとく極めて稀です。私個人としては、他に何も情報がない状態で、「筒井康隆を読んでいる中学生」と「朝日新聞(朝日の入試出題率はダントツで、2位の日経の5倍近い数字を叩いています)を読んでいる中学生」のどちらかを選べと言われたら、前者のほうを合格させたいと思いますが、入試問題として出題するのを躊躇されるのは分からないでもありません。たとえば、生徒全員が筒井康隆の読者というクラスを担任するのは、けっこうしんどそうです。

筒井順慶は、かつて松永久秀に大和を追われていました。久秀は信長によって滅ぼされますが、そのとき順慶は光秀の口添えで大和国の守護に任じられた、という経緯があります。また、順慶は光秀の子を養子に迎えていました。ですから、1582年に本能寺の変が勃発し、明智光秀羽柴秀吉が山崎の合戦で激突したとき、順慶が光秀側についても何の不思議もないところです。しかし、順慶は郡山城を動かず、中立を守りました。実際に洞ヶ峠に兵を出したのは光秀です。

にもかかわらず、「洞ヶ峠」は順慶の不名誉とされました。はっきりした理由はよく分かりませんが、筒井家が順慶の養嗣子定次の代で滅んでいることと関係がありそうです。筒井家は、1608年、突如幕府から改易させられています。定次が豊臣秀頼に通じていたことが理由とされていますが、真相は薮の中です。ともあれ、歴史というのは敗者に厳しいものであるというのは確かでしょう。筒井氏周辺のエピソード(元の木阿弥など)は、どうも小大名の悲哀を感じさせます。

桶狭間の合戦もかなり脚色されて伝わっているようです。Wikipediaの「桶狭間の戦い」の項はなかなか面白いです。一般には、信長は、今川義元桶狭間で休息を取っていることを察知してそこを急襲した、ということになっていますが、実はどうも違うらしい。

信長公記」を読むと、確かに違和感があります。桶狭間という言葉は出てきますが、なんと「おけはざま山」とあります。山ですか!? これでは奇襲もクソもありません。丸見えです。さらに、信長は桶狭間にいる敵は「鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり」(信長公記)と認識していたようですが、実際は桶狭間にいたのは、丸根、鷲津砦を攻撃していた敵の先方隊ではなく、義元の本隊だったわけです。

要するに信長としては、疲労している敵の先方隊を正面から叩いて局地的な勝利を得ようとしての行動だったのが、たまたまそこに敵の総大将がおり、偶然の雨もふり、奇跡的に義元の首が獲れてしまったということのようです。主人公属性爆発ですな。

本能寺の変では、明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったとされるわけですが、これは江戸時代後期の儒学者頼山陽がその漢詩中で「吾敵正在本能寺(わが敵は正に本能寺に在り)」と詠んだからとされます。しかし、しびれる台詞です。言ってもいないことを言ったことにされてしまうのは気の毒ですが、これぐらい格好良ければ許されるような気もします。もっとも、光秀がこの言葉を言っていないという証拠は、もちろんないわけですが。

この調子で「秀吉は猿とは呼ばれていなかった」とか「長篠の戦いの鉄砲三段撃ちは嘘」とか有名な挿話をメッタ斬りにできるわけですが、なんだか印象深いエピソードってみんな嘘じゃね?という感じで、なんかこう味気ない気がしてきます。もちろん、歴史を学ぶ意義の一つには、未来に対する知見を得ることがあるわけで、そのためには単に武将のキャラが立ってる、というだけでその話を史実として採用することはできません。

しかし、私自身の記憶をほじくりかえしてみると、戦国時代をまず最初に脳裏に刻んだのは「学研まんが日本の歴史」なのですが、そのときは、やはり上記のようなエピソードを一枚絵として印象に残したわけで、してみると、こういう挿話の教育的価値というのは馬鹿にはできません。

桶狭間が、奇襲による勝利というふうに改竄されるのは、「信長」という存在に「軍事の天才」という固定したイメージをもっているからです。こういうイメージ、固定観念、予断をもって歴史を見ることがよろしくないのは、それはまあそうだろうと思うのですが、しかし一方で、そういうイメージをつくらない「理解」のかたちというのが本当にあるのか、あっても意味があるのか、そもそも、よく分らないところがあります。

私は別に歴史的な「事実」の正確性(そんなものがあるとして)をストイックに追求する学問の徒でもないですし、面白けりゃなんでもいいさと歴史の「物語」性のみを求めるものでもありません。ただ、歴史を学ぶということが自分にとってなんらかの「機能」をもつはずで、それを最適化するには、事実と物語の座標軸のどこに足を置けばいいか考えているだけです。

今回このエントリを書いていて感じたのは、大事なのは「つくられた歴史」を学ぶことではなく「歴史をつくる」ということではないか、ということです。桶狭間に関する記述を確認するために「信長公記」の原文にあたるのは大変楽しい作業でした。それは単に客観的事実を確認したのでもありませんし、かといって主観的な物語にすべてを委ねたのでもありません。あの瞬間だけは、歴史は教科書のものではなく、私のものでありました。

どうせ人は死ぬんです。作品よりも創作に意味があるのは、当たり前なのかもしれません。