鑑賞は創造である、フィンセント・ファン・ゴッホ、植えられる

芸術というものの「価値」はどこにあるのでしょうか。作品それ自体に「価値」があるのだとしたら、ゴッホが生前あれほど苦しまなければならなかったのはなぜでしょうか。今日は、鑑賞という行為を切り口に、芸術とは何かについて考えます。

 ゴッホの絵は、彼が生きているあいだは一般大衆にはもちろん、セザンヌのような同時代の大天才にさえ、こんな腐ったようなきたない絵はやりきれないとソッポをむかれました。当時はじっさい美しくなかったのです。それが今日はだれにでも絢爛たる傑作と思われます。けっしてゴッホの作品自体が変貌したわけではありません。むしろ色は日がたつにつれてかえってくすみ、あせているでしょう。だがそれが美しくなったのです。社会の現実として。こんなことはけっしてゴッホのばあいにかぎりません。受けとる側によって作品の存在の根底から問題がくつがえされてしまう。
 こうなると作品が傑作だとか、駄作だとかいっても、そのようにするのは作家自身ではなく、味わうほうの側だということがいえるのではありませんか。そうすると鑑賞――味わうということは、じつは価値を創造することそのものだと考えるべきです。もとになるものはだれかが創ったとしても、味わうことによって創造に参加するのです。だからかならずしも自分で筆を握り絵の具をぬったり、粘土をいじったり、あるいは原稿用紙に字を書きなぐったりしなくても、なまなましく創造の喜びというものはあるわけです。

岡本太郎今日の芸術』より

岡本太郎が死んで10年が経ちました。「芸術は爆発だ」などの遺言いげんから、少々エキセントリックな、ぶっちゃけ変なオッサンという印象を残した人でしたが、この文章などは非常にまっとうです。

ゴッホが大変薄幸だったことはよく知られています。生前に売れた絵はたった1枚しかありませんでした。その1枚「アルルの赤い葡萄畑」を購入したのはアンナ・ボックという女流画家です。取引価格は、カフェのコーヒーが0.25フランだった時代の400フランだそうです。スターバックスの300円コーヒーで換算しても、50万にも届かない値段です。

1987年に安田火災ゴッホの代表作「ひまわり」を58億円で買いとったことは、バブルを象徴する印象に残るニュースでした。最近だと、2006年5月2日に「アルルの女(ジヌー夫人の肖像)」がクリスティーズで約4000万ドルで落札されています。

私生活でもめぐまれない人でした。画家のゴーギャンと共同生活をするも、不和となります。ある日、ゴッホは、ゴーギャンの描いた「向日葵を描くゴッホ」の中の自分の姿に狂気を見出し激怒、ゴーギャンを剃刀で襲いますが果たせず、その直後に自分の耳を切り落とします。そして、その耳を、そのまま娼婦宿に持っていったとか。2年後、ゴッホはピストルで自殺します。そして、死の直後から彼の絵は世界的に高い評価を受け始めるのです。

作品が理解されなかったという点では、セザンヌもどっこいどっこいです。初めてのサロン入選は43歳、絵が注目され始めるのは55歳をとうに過ぎてからです。今や「近代絵画の父」とうたわれる天才にしてこのありさまです。

この時代、ゴッホら新興の画家たちを排撃したのは、アカデミズムの画家たちでした。例えば、フランスには王立美術アカデミーがあり、絶対王政下でサロンを支配し、技巧的な作品を追求していました。代表画家の一人、Bouguereauの作品Geromeの作品を見ると、精緻な筆致、陳腐な題材、ヌードの女性という、お約束感バリバリの作品群、いかにも「絵画」って感じです。当時は、このような作品に高い評価が与えられていたのでした。

このような歴史の流れの上にたてば、作品の価値というものはむしろ鑑賞する側の問題なのである、という岡本太郎の指摘は、正鵠を射ているでしょう。鑑賞とは創造です。

さて、創造とは何かが生み出されることです。では、この場合、鑑賞によって、「どこ」に新しい価値が創造されたのでしょうか。それは、鑑賞者の心の中をおいて他にありません。

佐々木健一美学辞典』には次のようなことが書かれています。「美的体験は、たとえそれが虚構の芸術世界を対象とするものであっても、体験としては現実のものであり、われわれの歴史を構成し、従って、その体験の前と後では、なにがしかの意味において、われわれは変貌している」。

アートartという言葉の起源は、ギリシア語のテクネーtechneあります。techneはテクニックtechniqueの語源で、特別な能力によってある効果を実現することです。前出の『美学辞典』では「芸術」の定義の中で「人間が自らの生と生の環境とを改善するために自然を改造する力を、広い意味でのart(仕業)という。」と書いています。

すなわち、芸術とはそれを見る人を変える力をもつものです。

「芸術」の「芸」の字は略字で、正しくは「藝」と書きます。「藝」とは「人が植物を土にうえ育てること」(漢字源)。のちに、園芸技術の意味から一般の才能・技芸の意味に転じ、それがartの訳として採用されたわけです。芸術とはそれを見る人の心に何かを「植える」ことです。植えられたものが心の中で芽吹き、花開き、結実する。それが美的体験です。

身のまわりのものを、自分を変えるもの、という切り口で見ていくと、実に多くのものが芸術作品として立ち現れてくることに気づきます。それもまた創造といえるでしょう。