死者600万人、劣化ウランはなぜ「問題」か、感覚はあてにならない

今まさに世界大戦に匹敵する死者が発生していることに多くの人が気づかないのはなぜか。カラシニコフ銃より劣化ウラン弾のほうが問題視されるのはなぜか。今日は、人間の計量感覚の錯誤から、「素朴な市民感覚」で社会問題を解決しようとする危険性について考えます。

 例えば、わが国では、小学生の肥満児ということが、よく問題になります。あるいは君たちの家庭では、やせるための美容食というようなことが話題になっていないでしょうか。食べるものがたくさんあって困っているという社会です。ところが、例えば東南アジアを考えてみると、フィリピンの山岳民族の子供たちは、今なお一日二食の食事にありつけるかどうかという状態です。このような国々では若くして死んでいく人が多い。わが国では平均寿命が七十歳を越したといわれているけれど、これらの国々では、非常に低く四十歳台であるといわれている。発展途上国では、今なお八億の人々が貧しさの中で苦しんでいる。何億もの人々が病気のために働けないである。世界の全人口の四十パーセントの人々が読み書きができなくて困っている。南の国々において飢えや貧しさ、病気や字の読み書きができないために生み出されているところのもの――それは、世界的な大戦争が行われた場合に生ずる破壊や殺りくと比べても、質的にも量的にもいっそう大きいほどのものだとさえいわれているのです。

宮田光雄『きみたちと現代』より

この『きみたちの現代』が出版されたのは1980年で、数字が古くなっています。今では、我が国の平均寿命は約80歳、フィリピンの平均寿命は約70歳まで上がっていますし、世界の文盲率は25%まで下がっています。とはいえ、この文章に書かれた貧困の問題はまだまだ健在です。現在、飢餓が理由で亡くなる子供(5歳以下)は、年間600万人、5秒に1人の割合で発生しており、これは第二次世界大戦の死者、6年間に5000万人*1と比べても、筆者の言うとおり、けして劣る数字ではありません。

しかし、私が不思議に思うのは、この貧困の問題が、少なくとも今の日本でほとんど問題になっていないように見えることです。いや、もちろんまったく無視されているわけではないですよ。ホワイトバンド運動なども記憶に新しい。しかし、問題の異常な大きさに比べて、その関心は明らかに小さいのではないでしょうか。だって、世界大戦なみの死者ですよ? ネットにあった比喩を借りれば、300人乗りのジャンボ・ジェット機がほぼ30分に1機墜落しているのと同じぐらいのペースです。どう考えたって大事件じゃないですか。

なぜ我々はかくも貧困に無関心なのでしょうか? それは我々が無慈悲で、外国の子供たちのことなどどうでもいいと思っているからでしょうか。

例によって話が飛びますが、以前にもこの日記で紹介した『賢いはずのあなたが、なぜお金で失敗するのか』という本は、そのあざといタイトルと裏腹に、優れた行動経済学の入門書です。この本を元ネタにした以下の質問をぜひお考えください。

えー、突然ですが、私のこの駄文をここまで読んでいただいて、私は大変感激しています。そこで、あなたに500万円差し上げようと思います。いや遠慮なさらずに。さて、あなたはこのまま500万円をもってお帰りになってもけっこうですが、一つコイン投げでもしませんか? 表が出たら、さらに500万円プレゼントです。でも、裏が出たら最初の500万円は没収。どうします?

はい、どうしますか? おそらく、ほとんど全員が全員500万円もって帰るほうを選ぶのではないですか。だって、仮にコイン投げを選び、裏を出して外した場合、そうとうへこみますよね。でも、その感覚、実は不合理ですよ。だって、コイン投げをしたって、期待値は同じ500万円なんです。ならばどっちを選んだってだいたい同じでしょう。

こんなことになるのは、我々は利益については過小に評価し、損失については過大に評価する傾向があるからです。すなわち、資産の心理的価値は、金額が上がるのに比例して増えるわけではないということです。具体的には、1万円→2万円の増加は嬉しいですが、1000万円→1001万円は大して嬉しくない。ですから、「500万→1000万」と「500万→0万」では、後者のほうが重大に感じます。

これが貧困の問題にどう関係があるのでしょうか。例えば、10万円を出すことで10人の命が救えるとします。この取引はどう考えてもお得ですよね。ぜひお金を出すべきです。しかし、自分の貯金が100万円→90万円に減るかわり、地球の人口が60,0000,0000人→60,0000,0010人になるんですよ? 得した気になりますか?

要するに、貧困の問題は、我々の数量感覚とうまくなじんでくれないのです。ですから、「一人一人の素朴な善意」みたいなものに頼っていると、貧困の問題は絶対に解決できないと思います。

このような我々のもつ心の会計の矛盾は、他にもあります。私は、それがさまざまな社会問題の解決を妨げているのではないかと思うことがあります。

例えば、こんな話。

Aさんは、遺産として株100万円を相続しました。そのまま、何もせず3年が過ぎ、資産の点検をしてみたら、株価は70万円に下落していました。一方、Bさんも、遺産として株100万円を相続しました。Bさんは、友人のすすめに従って別の会社の株に買いかえました。3年過ぎて、資産を点検したところ、Bさんが買いかえた株は70万に下落していました。買いかえの手数料は無視できるとして、どっちががっかりしていると思いますか? 逆に資産が増えたとしたらどっちが嬉しいですか?

はい、株価が下落した場合、明らかに株を買いかえたBさんががっかりですね。逆に資産が増えたら、Bさん大喜びでしょう。でも、AさんもBさんも資産の状況はまったく同じなんです。これは、我々は、自分の不作為による利益・損害より、意図的な選択による利益・損害を過大に評価する傾向があるということを示しています。

もう一つ。

あなたはある歌手のコンサートに出かけました。ところが、会場について5000円のチケットを落としたことに気づきました。チケットを買いなおしますか? また、別のある日、同じ歌手のコンサートに出かけました。今度はチケットは現地で買うつもりです。ところが、会場について5000円を財布から落としていたことに気づきました。しかし、まだ財布には5000円以上残っています。チケットを買いますか?

前者と後者で、どちらがチケットを買うのに抵抗がありますか? 明らかに前者ですよね。でも、考えてみれば、前者と後者で、チケットを買うときのあなたの経済状態は完璧にいっしょなのですよ? なぜ、こんなに気持ちの違いが生まれるのでしょうか。

これは、我々が収入・支出を分類し、「別会計」を立ててしまうからです。どんな方法で支払おうが5000円は5000円なのですが、我々はそれを「チケット代」「落とし物」などと分類してしまう。そして、「チケット代に10000円は高すぎる」などと考えてしまうのです。ボーナスが50万→51万に増えるのと、副業やって1万円儲かるのとでは、たぶん後者のほうが嬉しい。それは、我々の心で副業が「別会計」になるからです。

同じものが違って見える、いわば心の錯覚とも言えるこの錯誤は、我々すべてがもつものです。しかし、それに無自覚であるといろいろ問題を起こします。具体的に考えます。例えば、劣化ウラン弾

アメリカ軍が使用する劣化ウラン弾がしばしば特別に問題視されます。私にはこれが不思議でなりません。兵器としての殺傷能力なら、他に大きなものがいくらでもあります。ぶっちゃけ、現在の世界で、最も人類を殺傷することに貢献している武器は、AK47カラシニコフ)ではないでしょうか? 松本仁一カラシニコフ』によれば、この「悪魔の銃」は世界に1億丁以上あるそうです。どう考えたって劣化ウラン弾より人類に有害です。しかし、カラシニコフより劣化ウラン弾のほうが重大な問題であるように感じる人が多いようです。

理由の一つは、アメリカという国が、「コントロールできそう」な感じがするからです。チベット虐殺で中国に抗議しない人も、アメリカが何かすると抗議します。それは、アメリカが「コントロールできそう」だからです。アメリカに甘えていると言えばそうなのですが、アメリカが民主国家として信頼されている、とも言えます。

要するに、劣化ウラン弾を使うかどうかは、我々が「選べる」ような気がするんですね。そういう、自分が選択できる(と感じた)ときの被害というものを、我々は過大に評価する。一方、カラシニコフのほうは、もうコントロールできないという感じがする。だから、過小評価する。しかし、こういった感覚は、人類の総死者数を減らすという見地に立つと、ほとんど有害でしかありません。多くの場合、「最も重要」とは言えない問題に目が向いてしまうからです。

劣化ウラン弾が「問題」になるもう一つの理由は、劣化ウラン弾の「放射能による被害」*2が兵器としての純粋な能力と「別会計」になってしまっているところです。劣化ウラン弾自体、兵器として十分な性能があるわけですが、そこに「放射能」という付録がついてくると、「別会計」になるので、より禍々しく感じられる。「100+1=101」じゃないんです。「100と1で、2つ」なんです。

カラシニコフの殺害数が今さら1000人ぐらい増えてもほとんどインパクトはありませんが、劣化ウラン弾放射能が理由で死者が出たら大注目でしょう。0→1人に変化するわけですから。これは、(私自身もそういう感覚をもつだけに)かなりうんざりするような人間の不合理性なのですが、きっとこれを矛盾と思わない人もたくさんいるのでしょう。

私は、現代の社会問題を考える上で、もう「素朴な市民感覚」みたいなものはほとんど役に立たないのではないかと思います。

それは、一つは社会構造が複雑化したからです。例えば、日本は食べ残しが多いことで知られ、なんでも約3700万人分の食料が捨てられているらしい。それに心を傷めて毎日の食事を残さず食べたところで、コンビニやスーパーの消費期限切れの弁当類が年に700万トン捨てられるという現実がある。つまりは、いつでも弁当が買えるという便利な生活自体に問題があるわけですが、そんなこと「感覚」で気づくものではない気がします。

あるいは、森林資源を守るために割り箸を使わないことにしようと言うと、いや、あれは間伐材を使っているから、むしろ使ったほうがいいんだと言われ、すると、いやいや、最近の割り箸はほとんど中国産で、中国の割り箸はわざわざを木を切って作るから、やっぱり割り箸は使わないほうがいいんだ、と言われ、ああ、もうわけわかりません。というか森林破壊の問題は、森林を食いつぶさなければ生活できない途上国の経済問題であって、我々が身近な割り箸ごときどうこうしたって、ほとんど無駄なのではないでしょうか。

しかし、「素朴な市民感覚」があてにならないと思うのは、もっと根源的に、人間の「感覚」というもの自体が、もうものすごく根っこのところで、ほとんどあてにならないからだ、ということをこの文章では見てきました。要するに、劣化ウラン弾について、我々がやるべきことは、どこから拾ってきたか分からない奇形児の写真を晒しものにすることではなくて、データとソースを丹念に追うことではないか、ということです。地味な結論で恐縮ですが。

*1:この第二次世界大戦の死者数5000万という数字はソースを洗っていません。中国人が2000万人ぐらい入っているようです。

*2:劣化ウラン弾放射能による被害についてはかなり疑義がありますが、とりあえず今の話とは関係ないので深追いしません。