自分とは何か、頭がない私、「ひかりはたもち その電燈は失はれ」

「自分が自分である」ということを証明してくれと言われたら、どうすればいいのでしょうか。なぜ私たちは、自分の額に「肉」という文字がないと確信して生きているのでしょうか。今日は、自分が自分であることが何によって支えられているのかについて考えます。

「ひょっとして」
と、わたしはドキドキする胸を押さえながらいった。
「その人が、わたしのほんとうのお母さんなの?」
おばあさんは、とうとううなずいてしまったのである。
「いまのお母さんはちがうのね」
ただもう、うなずいている。
 わたしはそのとき湯の中にしゃがんでいたのだが、急にぐらっとよろけるような錯覚をおぼえた。足が無くなったかんじである。わたしの体を支えている根元のかんじんな足が不意に引き抜かれた……。ああ、親だとか肉親だとかいうものは足だったんだな、とわたしは頭の中でかんがえたのだ。それが無いと、こんなに不安定にゆらゆらと揺れて、頼りなくなってしまうんだな……。

村田喜代子『鍋の中』より

主人公の「わたし」は、生まれてまもなく両親とも亡くし、叔父さんの家の子として生活していました。その「わたし」が、自分の出生の秘密を知る場面です。

「わたし」は、今の親が実の親でないことを知って、自分というものが「不安定にゆらゆらと揺れて、頼りなくなってしまう」と感じています。「親だとか肉親だとか」が自分を「支えて」「安定」させている。これはいったいどういうことでしょうか。

一般に「自分が自分である」ということ納得することは、大変重要なこと、よいことだと考えられています。しかし考えてみると、「自分が自分である」というのは、単なるトートロージー(同語反復)でしかありません。いったいどうやって、人間は「自分が自分である」ことを確認するのでしょうか。

逆に「自分が自分でない」というのは、どういう状態なのでしょうか。それは、精神分裂病統合失調症)の状態です。「サイコドクターあばれ旅」の「私家版・精神医学用語辞典」の「精神分裂病(統合失調症)」の項によれば、自分と自分でないものの区別の喪失から、離人症、世界没落体験、思考奪取、思考伝播、関係念慮……など分裂病の症状が現れる様子がよく分かります。

木村敏は『異常の構造』の中で、「正常」ということは、「1=1」という等式、「世界公式」が成立することである、と述べています。そして、「かりにいまこの公式を『証明』しなければならないとしたら、私たちは途方に暮れるよりほかはない」と。

数学において、「1=1」は、証明されているのでしょうか。数学基礎論では「1+1=2」ですら証明の対象です。1+1=2の証明は、集合の定義からきちんとやると普通に100ページ以上必要で面倒ですが、そんなに問題になるところはありません。一方、「1=1」の証明はありません。数学において「等しい」という性質は、「定義されるもの」(公理)であって、「証明されるもの」(定理)ではないからです。数学においては実は話が逆で、「1=1」となるような関係「=」を「等しい」と呼ぶのです。

どうやら「自分が自分である」ことを直接証明するのは、ずいぶん困難なことのようです。

D・R・ホフスタッター、D・C・デネットマインズ・アイ』に収録されたドナルド・ハーディング「頭がない私」という奇怪な短編があります。この短編の主人公は、ある日「私には頭がない」ということを発見するのです。「私には頭がない」ということの論拠がその短編にはいくつか挙げられていますが、最も端的な理由としては、私は私の頭を直接見ることができないということがあります。なるほど、確かに我々は、直接見たことがないにもかかわらず、「頭」というものが確かにここにあると確信しています。

鏡を見ればいいじゃないか、と反論がきそうです。上記の短編では、鏡の自分は本当の自分ではないという趣旨のことが書かれているのですが、ここでは話を簡単にするために、鏡のない世界という思考実験でいきましょう。もし、身のまわりに鏡がなかったら、私たちは、自分に頭がある、ということを確信できないでしょうか? そんなことはないですね。では、どうやって頭が存在することを確信するのでしょうか?

「頭があるかないか」という設定はちょっと過激すぎて、問題の本質が見えにくくなりますので、もう少し和らげます。仮に私たちがこんな疑念にとりつかれたとします。「ひょっとして自分のほっぺたには、うずまきマークが書いてあったりしないだろうか」あるいは「もしかして、私の額には『肉』という文字が刻まれているのではないか」。さて、そうでないことを、鏡を使わずに確認する方法はあるのか。私にはちょっと思いつきません。

しかし、私たちは、日常生活において、いちいちそんなことを気にしません。いきなり結論になりますが、それは「他者の承認」があるからですね。他人が自分の顔を見て、別に何の懸念ももたない、ということが、自分の顔はふつうである、ということの証明になります。逆に、例えば、学校や職場にいって挨拶したとき友人が自分の顔を実に怪訝そうに見ていたとすれば、ふつうの人は「オレの顔に何かついているのだろうか」と不安になるわけです。

佐藤マコトサトラレ』という漫画があります。高い精神エネルギーをもつがゆえに思考が外部に漏れ出してしまうサトラレと呼ばれる人々を描いた作品です。人々は、サトラレの天才的知性を保護するために、国を挙げてサトっていることに気づかないふりをします。サトラレは明らかに異常な存在です。しかし、この物語中のサトラレは高い知性をもつ以外は平凡な人間であり、自分が異常であると悩んだりしません。それは、周囲の人間が「彼・彼女はサトラレではない」としてふるまうからです。

石原千秋は、『教養としての大学受験国語』の中で、こんな例をあげています。幼い頃の写真を見せられて「これがあなただ」と言われたとき、ああ確かにこれは自分だな、と実感できるか? それは、写真を見せた人が誰かによって変わるのではないか、と。なるほど、確かにそうです。石原千秋は、「身近な人たちが僕たちを『あなた』だと思い続けてくれることが、そういう人たちの記憶が、僕たちの自分を支えているのだ」と書いています。

自分が自分であるという感覚は、他人によって支えられているようです。

このような「自分」の構造をよく示しているのは、「名前」です。「自分」と「名前」は切り離すことができないものです。「名前」とは、他人から呼ばれるためのものであり、必ず他人から与えられるものです。

筒井康隆夢の木坂分岐点』では、主人公の名前が「小畑重則」「大畑重則」「大畑重昭」……という調子で次々と流転していきます。そして、主人公は少しずつ違った生を歩むことになります。グレッグ・イーガン祈りの海』に収録された「貸金庫」は、毎朝目を覚ますたびにまったく見も知らぬ人間に憑依する男の物語です。この短編は、こんな言葉で始まり、そして終わります。「ありふれた夢を見た。わたしに名前がある、という夢を。ひとつの名前が、変わることなく、死ぬまで自分のものでありつづける。それがなんという名前かはわからないが、そんなことは問題ではない。名前があるとわれかば、それだけでじゅうぶんだ。」

宮沢賢治春と修羅』の序の書き出しは有名です。「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」。この最後の「ひかりはたもち その電燈は失はれ」という部分は不思議です。「電燈」が「失はれ」たのに、なぜ「ひかり」が残るのでしょうか。

私には、「自分が自分であることは世界全体とのつながりによって支えられている」ということが、その答えであるような気がします。