あさましッ、走れほとんど全裸体、世界とのつながりあるのみ
『今昔物語集』に牛車の中で突然服を脱ぎ始める役人の話が出てきます。この役人のねらいとは? 「走れメロス」で、メロスは「ほとんど全裸体」だったとありますが、「ほとんど」って? 今日は、話題が脱線転覆しつつ、ものごとの本質は世界とのかかわりの中にある、ということについて考えます。
今は昔、阿蘇の某と云ふ
史 ありけり。長 ぞ( 短 也けれども、魂はいみじき盗人にてぞありける。( 家は西ノ京にありければ、
公事 ありて内に参りて、夜ふけて家に返りけるに、東の中の御門より( 出 て、車に乗りて、大宮( 下 にやらせて行きけるに、着たる装束を皆解きて、片端より皆たたみて車の畳の下に、うるはしく置きて、その上に畳を敷きて、( 史 は冠をし、( 襪 ばかりを履きて、裸に成りて、車の内に居たり。( さて、二条より西ざまに遣らせて行くに、美福門の程を、過ぐる間に、盗人、傍よりはらはらと
出 来ぬ。車の( 轅 に付きて牛飼童を打てば、童は牛を棄てて逃げぬ。車の( 後 に( 雑色 二三人ありけるも、皆逃げて( 去 にけり。盗人寄り来て、車の( 簾 を引き開けて見るに、裸にて( 史 いたれば、盗人「あさまし」と思ひて、「こはいかに」と問へば、史、「東の大宮にて、かくのごとくなりつる。( 君達 寄り来て、己が装束をば皆召しつ」と、( 笏 を取りて、( 吉 き人に物申す様に( 畏 まりて答えつければ、盗人わらひて棄てて去にけり。その後、史、こゑをあげて牛飼童をも呼びければ、皆( 出 来にけり。それよりなむ家に返りにける。( 『今昔物語集』より
古文の上、長い引用になり申し訳ありません。私、この話、大好きなんですよ。訳しておきます。
今ではもう昔のことだ。阿蘇に、とある役人がいた。体は小さい男だったが、そのふてぶてしさは、盗人顔負けであった。
役人の家は京の西である。ある日、内裏で仕事があり、帰宅が深夜になった。宮殿の東門から出て、牛車で通りを下っていく。そのとき、役人は、着ているものをすべてぬぐと、きちんとたたんで座席の下に隠し、冠とくつ下のみの裸になった。
車は、二条から西にむかい、美福門を過ぎたあたりで、道のわきからばらばらっと強盗が現れた。強盗が牛車の長柄にとりつくと、襲われた運転手の牛飼いは牛を置いて逃走、牛車の後ろに二三人いた部下たちも皆逃げていった。強盗が、牛車のわきに近づき、車のすだれを開けてみると、いたのは裸の役人である。「(゚Д゚)ハア?」と思って、「どういうことだ」と聞くと、役人は「東の大宮通りでこのざまでございます。あなたさまがたのお仲間が、私の服をみなもっていってしまいました。」と、笏(儀式などに使う板)をうやうやしくかかげ、貴族相手に話すようにかしこまって答えた。強盗たちは爆笑して、役人を放置して立ち去った。その後、役人は、運転手たちを呼びつけ、家に帰った。
いやあ、面白い話ですね。
この話で、私が最も印象深いのは「あさまし」という言葉です。別の言葉に置きかえたくなかったので、訳文では「(゚Д゚)ハア?」という顔文字にしています。
「あさまし」という言葉は、古今異義語(現代と意味の違う古語)です。文語では「(事のよしあしにかかわらず)驚きあきれるばかりだ。意外だ。」(全訳読解古語辞典)といった意味があります。
しかし、このように単語の意味をただ言葉で覚えても、本当に理解したことにはなりません。私が、「あさまし」を本当に理解した、と感じたのは、この物語を知ってからです。
想像してください。あなたは強盗です。やる気マンマンです。とある深夜。今日のカモが牛車でむこうからやってきます。仲間たちと、合図とともに襲撃。ザコをけちらします。そして、あなたが目をぎらぎら光らせつつ、牛車のすだれをバッと開けると
そこには、すっぱだかの男がっ(冠とくつ下は着用)
「あさましッ!」
と、こう使うわけです。これが「あさまし」です。
言葉というのは、シチュエーションの中でこそ働くものです。辞書のように「定義」をいくらならべても、その言葉を理解したことにはなりません。大事なのは、「それは何か?」と問うことではなく、「それは世界の中でどのように働いているか?」を問うことです。
裸の男つながりで、太宰治の「走れメロス」の話です。メロスは自分の身代わりになったセリヌンティウスのために必死で走りますが、途中で疲労困憊、ついに倒れます。
メロスは「私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。」と言い訳をし、まどろみに身をゆだねます。しかし、再び立ち上がると、友の信頼に報いるため、口から血を噴きながら走るのです。
「間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。」
メロスにとって「自分がどんな格好か」「自分がどう思っているか」などはもはやどうでもいいことです。彼には、ただ、純粋に「走る」という行為を通じた世界とのつながりがあるのみです。
あー、ところで、本題とまったくもって関係ないのですが、私はこの「走れメロス」には昔から一つ疑問がありました。シラクスの市を爆走するメロスなんですが、「ほとんど全裸体」だと書かれているんですね。いや、「全裸」はどうでもいいんですけど、「ほとんど」ってのが気になるじゃないですか。
「走れメロス」は、物語末尾に「(古伝説と、シルレルの詩から。)」とあるように、モチーフとなった伝説があります。「デイモンとピシアス」などを見ると「走れメロス」は古代ギリシアの話であることが分かります。この頃の服装は、キトンとかヒマティオンとか言われますが、一枚布を体に巻くという感じで、下着もなかったそうです。
このような衣装で「ほとんど全裸」になるって、そうとう難易度高いですよね。となると、何か「服以外のモノ」が体についていた、ということでしょうか? うーん、なんか可能性があまりない気がするのですが。
- 全裸にネクタイのみ → 究極のクールビズ?
- 全裸にグラサンのみ → HE・N・TA・I♪
- 全裸にヅラのみ → 「走れメロス」は、実はアデランスのCMだったんだよ!
- 全裸にエプロンのみ → 何その男のロマン。
このメロスの魅力に王様も思わず「わしの中にも入れてくれわしも仲間に入れてくれ」と言ってしまうわけですよ。ええ話や……。
……あれ何の話でしたっけ? 今日のネタは感動系にまとめあげるつもりだったのに、いったいどうしてこんなことに……。
なんかもう収拾がつかないので、強引に結論いきます。走る男つながりで、徒然草85段。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥 を学ぶは驥の類ひ、( 舜 を学ぶは舜の( 徒 なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。(
「驥」は優れた馬、「舜」は理想の帝王のこと。
「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」。大事なのは、「それが何であるか?」ということではありません。たとえメロスが全裸だろうが「ほとんど全裸」だろうが、えーと、裸エプロンまでいってしまうとちょっとツライところですが、ともかく格好など問題ではありません。彼が友人のために走った、それだけが大事なことです。
大事なのは、「それが、世界とどうつながっているのか?」ということです。我々も、考えてるヒマがあったら、走りましょ。