1年に1m動く水、1日に200リットルの天然水、それは830年前の雨

地下水って1年に1メートルしか動かないんだそうです。ミネラルウォーターからミネラルは摂れないって、知ってました? なんの不純物も入ってない純水ってまずいらしいですね。今日は、いったいなぜ我々は「勉強」なんてものをするんだろうか、ということについて考えます。

地下水の流れは非常に遅く、浅い地下水でも一日一メートル、深い地下水ともなれば年に一メートルの速度であり、降水が地下に浸透してから再び地表へ湧き出てくるその周期は、三百年、五百年と見られている。それゆえ私たちの使う水には、江戸時代の水も混じっている。
富山和子『水の文化史』より

げげっ、地下水の流速は年に1メートルしかないんですか。イメージとだいぶ違いますね。本当でしょうか。

こんなときまっさきに見にいくのはWikipedia。もはやのび太にとってのドラえもんなみですが、「地下水」の項によると、「地下水の流速は非常に遅く、年速数cm - 数百m程度である」とのこと。日本地下水学会のサイトには、「一日で数㎝しか流れないところも珍しくありません」とありました。ふむふむ、やはり、年速1mという数字は妥当なようです。

しかし、これ、とんでもなく遅いですね。以前にこのブログで、「フルスピードでのろのろと、年速1kmの言葉、カタツムリの速度で」というエントリを書いたことがあります。「きことはカタツムリの速度で動く」というガンジーの言葉にひっかけて、遅いもの選手権をやったんですけど、そこで最遅だったのは「人類が地球上に広がっていく速度」でした。それが年速12.5m。しかし、地下水の流速はさらに遅いです。

ということは地下水はかなり長いこと土の中にいることになります。再び日本地下水学会によると、地下水の平均滞留時間は830年だそうです。830年前というと1176年。平家が勢力を伸ばしていた時代ですね。

さて、地下水とはどのような水なのでしょうか。

一般に「地下水」というと「ミネラルウォーター」という感じだと思います。ミネラルというのは人体の必須栄養素です。やはり「自然の恵み」とは、人間が生きていく上で欠かせないものなのでしょう。

例えば、サントリーの「南アルプスの天然水」は、100mlあたりマグネシウム0.14mgを含んでおります。厚生省によると成人男子の1日あたりのマグネシウム必要量は最低280mgですから、これは「南アルプス天然水」を1日に200リットル飲めばいい計算に……って、いやそれは無理だろ。

コントレックス」ならもう少しマシです。100mlあたり、マグネシウム8.4mgなので、1日あたり3リットル飲めばOKですね! これでもそうとう無茶ですが。

そもそも、水を飲みすぎると、それを尿や汗として排出するときに同時にミネラルも排出してしまうため、体内のミネラルバランスが崩れる、という問題があるのでした。ということは食物との比較においてですが、「ミネラルウォーター」はミネラル供給源として別に優れていない、という結論でまずはよいかと思います。

ということは、「地下水」というのは生存上不可欠な水、というわけではないようです。

それでも、ミネラルウォーターというのは売れています。確かに美味しいですからね。これはどういうことでしょうか。

完全に不純物を含まない水を「純水」といいますが、これが非常に不味く、飲めたもんじゃないことはよく知られていると思います。水というのは、適度に不純物が入っていて味がついていたほうが美味しいのです。ということは、地下水のよさというのは、不純物を混ぜることで「味」をつけていることにあるようです。

これ、「勉強」に似ている、と私は思います。

まず勉強というものは遅々として進むものです。ある技能を修得するには莫大な時間がかかります。手元に転がっている三宅なほみ、 白水始『学習科学とテクノロジ』によりますと、認知心理学者のノーマンは「職業として一つの技能を修得するまでにかかる時間」を5000時間とした、とあります。

「真があって運の尽き」というブログの記事によれば、日本人が英語を日常会話に不自由ないレベルまで修得するのにかかる時間は3000時間」とのこと。ところが、「我々日本人は学校で英語の勉強に1000時間ほどしか費やしていない」わけで、なるほど、こりゃ英語がしゃべれるわけありませんな。

勉強には時間がかかります。地下水が年に1メートルしか動かないように、学習したことがらも、我々の中にゆっくりゆっくり蓄えられていくのです。

では、我々は何のために勉強をするのでしょうか。

「勉強なんかしなくったって生きてく上で支障ないじゃん」とはよく言われることです。まったく、その通りだと思います。ミネラルウォーターなんか飲まなくたって、別に死にゃあしません。ただ、勉強に意味があるとすれば、それは、人生を、ちょっとおいしくしてくれる、ということだろうと思います。

地下水は830年間地中にあったのでした。ということは、新古今和歌集に歌われた「雨」が、今我々の前に地下水として湧いているのだ、と考えることができるわけです。これは、理科とか国語とかの知識あって、初めてできることです。

コップ一杯の水を見て、「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに(小野小町)」、あるいは「思ひあまりそなたの空をながむれば霞みを分けて春雨ぞ降る(藤原俊成)」、そういう「雨」が、今自分の目に前にあるんだなあ、と考えることができる、というのはなかなか楽しいことではないでしょうか。

学ぶということは、世界を変えます。湖や沼などの目に見える水の、50倍もの水が、今もゆっくりとあなたの中を流れているのです。