未来の自分は無力な他人、先延ばしを潰せ、自分は今ここにしかいない

環境問題の本質は、被害者である未来世代の人間が、現在の我々と対話することできない「本質的に無力な他者」であるところにあります。しかし、「先延ばし」によって被害を受ける「未来の自分」は、この「無力な他者」と同じなのではないでしょうか。今日は、「先延ばし」を潰すにはどうすればいいかを考えます。

「悪魔」の一員だけあって、経済学者の論理は完璧です。(私自身この論理を三〇年教えてきました。)実際、一九九七年の地球温暖化防止に関する京都議定書は、この論理を取り入れました。先進諸国に温暖化ガスの排出枠を権利として割り当て、その過不足を売買することを条件付きで許したのです。(中略)
 では、これで環境問題はすべてめでたく解決するのでしょうか。
 答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動し得ない共有地を抱えているのです。
 それは「未来世代」の環境です。

岩井克人「未来世代への責任」より

今日は、環境問題と「先延ばし」の関連について考えたいと思います。まずは、岩井克人にしたがって、環境問題の本質についてみてみることにします。

例えば、地球温暖化問題です。地球温暖化が今のペースで進めば、人類全体がかなり大きなダメージを受けると考えられます。しかし、我々は温暖化防止のための活動に及び腰です。なぜでしょうか?

経済学者ならこう言うでしょう。それは大気が「共有地」だからである。すなわち、大気は「みんなのもの」であるため、温暖化ガスを出したときのデメリットが人類全体に拡散してしまう。よって、ほとんどの人にとって、経済活動を優先して温暖化ガスを出すメリットのほうが大きくなってしまうのだ。

ならば、どうすればいいか? 経済学者は続けます。「私的所有制」を導入し、すべての環境を個人が所有するようにすればいい。そうすれば、環境問題は解決するであろう。

何を馬鹿な! と思うところです。自然というのは「みんなのもの」であったはずです。自然を自分勝手に所有し破壊したことが、そもそも環境問題の始まりではなかったか。

ところが、経済学者という「悪魔」たちは、ささやきます。自然を分割して、個人が所有し、値段をつけてしまえば、環境破壊は止まる。なぜなら、自然を破壊すれば、その「価値」が下落する。それを「所有者」はいやがるはずだから。

これは、アダム・スミスの「神の見えざる手」です。市場原理の中で個人が利己的にふるまうことが、結果として社会的全体の利益をもたらす。

ここで冒頭の引用文につながります。1997年の京都会議で採択された温室効果ガスの排出量取引は、まさしく大気を分割し、各国が「私的所有」し、市場原理に基づいて売買することで、温暖化問題を防ごうという発想でした。

しかし、ここから岩井は、この「悪魔の論理」にひそむ大きな欠点を暴き出します。それは、「経済学者の論理が作動し得ない共有地」、すなわち「未来世代の環境」の存在です。

なぜ未来時代の環境には市場原理が及ばないのでしょうか? それは未来世代がまだこの世界に存在しておらず、我々と取り引きすることが論理的に不可能だからです。

例えば、我々が隣家の庭を破壊したとします。その庭を所有する隣人は、自分の庭の価値が下がったため、我々に損害賠償を請求してくるでしょう。だから、我々は、隣の家の庭を破壊することを慎むようになります。自己利益を追求する行動が、結果として他者の利益にもなる、「神の見えざる手」の見本です。

ところが、未来世代が現在世代に損害賠償を請求することは不可能です。環境問題というのは、現在世代の環境が破壊されるから問題なのではありません。現在世代が未来世代の環境を破壊することが問題なのです。

ここまでが岩井の論点です。地球温暖化など、個々の問題の詳細に関しては様々な議論があるところでしょうが、それでもこの着眼は大変興味深いです。

さて、私は思うのですが、環境問題よりはるかに身近に、これをまったく同じ問題が、日々我々には発生しているのでないでしょうか。それは、「先延ばし」の問題です。

「先延ばし」というのは、やるべきことをぐずぐずと先に延ばしてしまうことです。誰にでも心あたりがあると思います。〆切間際にならないと宿題に手につかない。次の仕事があるのに、ついつい目先の娯楽に逃避してしまう。大事な課題は分かっているのに、つまらない作業で延々と時間を浪費してしまう。

先延ばしと環境問題は、スケールこそ違え、まったく同じ構造をしています。どちらも、現在の利益を追求するあまり、未来に被害を与えてしまうのです。

先延ばしについては、Wikipediaの「先延ばし」の項が異様に充実しています。やはり「先延ばし」をどう克服するかは、大きな関心事なのでしょう。"Procrastination kills"(先延ばしを潰せ)は有限の生を生きる我々には欠かすことのできない標語です。

私がオススメする先延ばし克服法の一つを紹介しておきます。「(10+2)*5」メソッドです。詳しい内容は、43foldersの「Procrastination hack:“(10+2)*5”」(リンク先英語)がよろしいかと思いますが、ここでも簡単に解説しておきます。"(10+2)*5"とは、なんとも検索しづらい名前をつけてくれたものですが、しかし、こいつはなかなか強烈ですよ。

まずタイマーを準備してください。音が出るものがよいです。それから、やるべきだけれどなかなか取りかかれなかった仕事を5つ用意します。大きな仕事はブレイクダウン(分割)して、10分弱で終わる作業にしておいてください。そして、邪魔されない時間を1時間確保してください。では、始めましょう。

タイマーを10分後にセットしたら、仕事を開始します。絶対に他のことをやってはいけません。ただ、ひたすら目の前の作業だけに集中してください。

10分が過ぎたら、2分の休憩時間です。ここが重要なのですが、どんなに仕事がノリノリ状態であっても、絶対にこの休憩時間を飛ばしてはいけません。とにかく、10分が過ぎたら、作業を中断してください。この休憩の2分間は自由にしてかまいません。

で、休憩時間が終わると、再び次の10分間が始まるというわけなのですが、ここでまた大事なポイントです。さっきの10分間で、たとえ仕事が完成していなくても、必ず次の仕事に移ってください。さっきの仕事の続きをやってはいけません。

これを5回繰り返します。合計1時間です。ということで、(10+2)*5メソッドと呼ばれているわけですね。

こいつはそうとう強力です。一度試してみられるとよいでしょう。

しかし、この(10+2)*5ですが、いくつか不可解なところがあります。「休憩時間を飛ばしてはいけない」とか「前の作業の続きをやってはいけない」などというルールがあるのは、なぜでしょうか? 仕事は、ある一定時間集中しないとフロー状態に入れないはずです。これでは、まるで、それぞれの10分を無理矢理バラバラに切断しているように見えます。そこに、なんの意味があるのでしょうか?

ここでいったん環境問題の話に戻ります。環境問題の本質は「未来世代」と「現在世代」の利害が対立していることでした。そして、根本的な問題は、「未来世代」と「現在世代」が契約も対話も合意もできないことでした。岩井克人はこう書きます。

 未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。その未来世代の権利を代行しなければならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。

未来世代とは「本質的に無力な他者」である、と岩井は言います。この指摘には、考えさせられます。環境問題の解決にあたって、我々は「本質的に無力な他者」と向きあっているのです。

では、個人レベルの問題である「先延ばし」ではどうでしょうか? 「先延ばし」の場合、「未来世代」とは「未来の自分」のことです。ですから、他者ではない、でしょうか? 本当にそうですか?

「他者とは何か?」というのは大問題でして、ほいほい答えられるような問題では、もちろんありません。しかし、ここで私は、環境問題と「先延ばし」問題が同じ構造をもっていることを言いたいと思います。

まず、未来の自分とは対話ができません。ですから、合意も契約も結ぶことはできません。また、未来の自分と現代の自分とは、「先延ばし」問題が発生している以上、利害が対立しています。もちろん、現在の自分と未来の自分は、かなり近い価値観や考え方をもっているはずですが、考え方が似ているから同じ自分だ、とは言えないはずです。

すなわち、未来の自分は自分ではないのです。

そして、未来の自分は現在の自分に文句を言うことはできません。現在の自分が遊びほおけて大量の仕事を「先延ばし」したとすると、未来の自分は泣きながらそれを片づけることになります。未来の自分は、現在の自分に愚痴をこぼすでしょうが、現在の自分は痛くも痒くもありません。未来の自分は、まさしく「本質的に無力」なのです。

「未来の自分は、本質的な無力な他者である」。これが今回のエントリで私が最も言いたいことです。

我々はしばしば「先延ばし」をすることで、損をします。そして、そのたびに、もっと早くやっておけばよかった、と悔やみます。自分はなんてアホなのであろうか。さっさとやっておけばもっと得をしたのに。なぜ、こんな分かりきったことができないのか! 楽をするために、今度こそ、さっさと仕事をやることにしよう!

ここには「今我慢しておけば、将来楽ができる」という発想があります。幼い頃からさんざん親や学校の先生から言われてきた言葉でしょう。しかし、この発想には大きな過ちがあります。それは、現在の自分と未来の自分という、異なる存在の利害を足し算してしまっていることです。

仮に、現在の自分と未来の自分が「同じ自分」であるのなら、その利害を足し算するのに、何の問題も生じないでしょう。しかし、今見たように、「先延ばし」問題が発生する状況では、この二者は、利害の対立する他人同士なのです。

そして、この二者があたかも対等の関係であるかのように、利害を足し算している。これは、経済学者の発想、「悪魔の論理」です。すべてを市場原理のもとに置き、個人に利己的な行動をとらせることで、結果として全体がうまくいくという論理。もし、未来の自分と現在の自分が直接対話できるのなら、きっとこれでうまくいったでしょう。

我々は、未来の自分も「同じ自分」だと錯覚しているため、「先延ばし」をするとき、あたかも未来の自分と「合意」をしたような気になっています。なあに、このぐらい遊んでもいいはずだ、被害を受けるのは「自分」だけど、「自分」は納得している……。ここに大きな間違いがあります。1つ目の「自分」は「未来の自分」、2つ目の「自分」は「現在の自分」です。これらは別人ですから、合意など成立していません。

しかし、未来の自分は「本質的に無力」ですから、何の反論もできません。その結果、我々は「自分」の利益を優先し、事態を悪化させていきます。これが「先延ばし」です。

では、どうすればいいのか?

そのためのヒントは、岩井の文章の中にあります。本質的に無力な他者に対して「倫理」的な存在になれ、岩井はそう書きます。

加藤尚武が名著『現代倫理学入門』の中で同じ問題を扱っています。「現在の人間には未来の人間に対する義務があるか」と題された章で、加藤はこう書きます。「未来世代は契約によって地球生態系の一員となるのではない。彼らは、否応なしにこの共同社会の中にいる。だからこそ他者の権利を尊重しなければならない。」

ならば、「先延ばし」でも同じはずです。未来の自分という本質的に無力な他者のために、現在の自分は自己利益の追求を我慢しなければならないのです。

未来の自分が「本質的に無力な他者」だと認識すること。これだけで、意識は大きく変わるのではないでしょうか?

(10+2)*5メソッドがうまくいくのも、私には「未来の自分は他人である」という考え方をするからではないかと思います。10分刻みで作業をバラバラにすることで、「まあ『この時間』で作業が終わらなくてもいいや。『次の時間』でやればいい」という発想を殺すのです。「自分」というものは、「今、ここ」にしかいない、という考え方を具体的な形にしたものが、(10+2)*5メソッドだと思います。

私が好きな言葉に「一日一生」があります。仏教系の言葉かと思いきや、内村鑑三の『一日一生』が出典というキリスト教系の言葉です。

この「一日一生」という言葉を、私は、今日の自分と明日の自分は別の人間である、というふうに受け取ります。一日が一生であり、今日の就寝とともに自分の生が終わるのだとしたら、いったい我々のこの苦しみは何のためにあるのか。それは、他者のためです。もちろん、普通の意味での他者であってもいい。しかし、明日の自分もまた他者なのです。

未来の自分は、本質的に無力な他者です。まだ、この世界に誕生すらしていない「彼」のために、自分は今ここで生きるのです。