視線の力の物語、(・・)、真実を見抜く目

宇治拾遺物語に、にらみつけることで物の怪の変身を暴く話が出てきます。また、世界には邪視信仰が多くあります。一方で、視線のもつポジティブなパワーも注目されています。今日は、「視線の力」についてのネタをぶちまけ、らちもなく考えます。

 昔、延喜の御門みかどの御時、五条の天神のあたり、大なる柿の木の実ならぬあり。その木の上に仏現れておはします。京中の人こぞりて参りけり。馬、車も立てあへず、人もせきあへず、拝みののしりけり。
 かくする程に、五六日あるに、右大臣殿心得ず思し給ひける間、誠の仏の、世の末に出で給ふべきにあらず、我行きて試みんと思して、日の装束うるはしくして、檳榔びりやうの車に乗りて、御前多く具して、集りつどひたる者ども退けさせて、車かけはづしてしぢを立てて、梢に目もたたかず、あからめもせずしてまもりて、一時ばかりおはするに、この仏暫しこそ花も降らせ、光をも放ち給ひけれ、あまりにあまりにまもられて、しわびて、大なる糞鳶くそとびの羽折れたる、土に落ちて惑ひふためくを、童部ども寄りて打ち殺してけり。大臣おとどはさればこそとて、帰り給ひぬ。
 さて、時の人この大臣を、いみじくかしこき人にておはしますとぞののしりける。

宇治拾遺物語』より

昔、柿の木の上に仏が現れて大騒ぎになった。右大臣源光みなもとのひかるは、こんな末世に仏が出るのはおかしいと思い、正装して仏のところに出かけ、梢をまばたきもせず、わき目もふらず見つめたところ、2時間ほどして、あまりに見つめられた仏は、老いた大きな糞鳶になって落ちた、という話です。寓話的で面白い。

糞鳶とはひどい名前ですが、鷹の一種ノスリのこと。写真を見る限り、普通に鷹です。だれですか、こんな名前つけたのは。

今回は「視線の力」に注目してみたいと思います。

なんといっても、右大臣源光が「一時ばかり(約2時間)」の間「目もたたかず」偽仏を見つめ続けたというのは凄いですね。人民網の記事によると、中国の女性が2時間まばたきを我慢する特技でギネスブックに挑戦したそうですから、源光の行為は世界レベルであることになります。しかし、このときの右大臣の絵ヅラを想像すると笑ってしまうのは私だけでしょうか。

「邪視」「邪眼」と呼ばれる呪術的信仰が、世界中にあります。人に害をなす視線です。メデゥーサ伝説、ファーテマの手、アメリカ1ドル紙幣の裏にあるピラミッドのホルスの目など。一方、日本には明確に邪視を意味する言葉はなく、「邪視」という言葉は、南方熊楠が"evil eye"の訳語として仏典から借用した言葉です。

もちろん、日本に視線の力に対する信仰がなかったわけではありません。物語要素事典の「目の呪力」の項には、日本の例が4つ載っています。除霊が2件あるほかは、桐壺院が源氏を須磨に追放した朱雀帝を睨みつけて眼病にした例、光源氏が妻と密通した柏木をにらみ殺す例です。平家物語にも視線の力で妖怪を祓う話が出てきます。福原遷都のとき、平清盛の屋敷の庭に髑髏どくろが現れました。清盛はぐっと睨みつけることで髑髏を消滅させています。

神経症の一つに、自己視線恐怖というのがあります。自分の視線が相手を傷つけてしまうのではないかと恐れる症状です。これは不思議なことに、日本などの邪視信仰のない国でよく報告されるそうです。

生物にとって、「見る」ということは攻撃のサインです。「東京の野生ニホンザル観察会」のページによると、「目を見るということは、野猿公苑のルールでは「攻撃するぞ」ということを意味する」そうです。DQNがガンを飛ばすのは、生物的にはまっとうな行為です。

生物は、もともと他者の視線に敏感なのです。シュルレアリスムの画家北脇昇に、オブジェを顔に見たてた作品群があります。いくつかの作品は松岡正剛の千夜千冊で見ることができます。どうも、人間は3つの物を逆三角形の頂点の位置に置かれると、それだけで顔に見えてしまうようです。乳幼児は、黒丸が横に二つ並んだ図形(・・)に注目することが分かっています。心霊写真が「見えて」しまうのも、その、過剰に視線を見出す働きによると言えそうです。

さて、視線の力というのは、魔を祓う力、相手を攻撃する力、すなわち、害をなす力である、ということでいいんでしょうか?

面白いことに、現代では「視線の力」というのが、非常に好意的にとらえられています。視線は、対人関係を良くするもの、力を与えてくれるものとされることが多いようです。

例えば、「視線の力」として、「ホーソーン効果」がよく挙げられます。これは、研究対象が自分たちが観察されていることを自覚しているため、結果に影響が出ることです。例えば、新しいやり方がうまくいくかを少人数のグループに試させると、注目されたグループは、そのやり方が出せる以上の高い生産性を出してしまうというもの。

ですから「視線の力」というのは、単純な危害をなす力ではありません。

ロンドン大学の調査によると、人の脳は、まばたきをする間、一部が活動を停止するそうです。脳が処理する情報の90%は視覚情報だといいますし、「見る」というのはなかなか頭を使うらしい。宇治拾遺にある「いみじきかしこき人」という評も「見る」という行為にむけてのものかもしれません。

折口信夫は、糞鳶の変身を見破ったこの話について、「糞鳶の来迎を見て、とつさに真偽の判断の出来る直観力の大切さが、今こそ、しみ/″\と感ぜられる。」と評しました。折口が指摘しているのは、「とつさ」の部分ですが、よくよく考えてみると、これまで挙げてきた視線の力の物語は、みな「真実を見抜く目」という側面をもっているのでした。

「直観」とは「推理を用いず、直接に対象をとらえること」(大辞泉)です。「観」という字に「見」という字が入っているのが、「直感」との違いを象徴しています。「見る」という行為は、余断に縛られず、直接に真実に達するのが本来の働きなのではないか。

人間が視線を感じることができるか、という実験はいくつか行われていますが、はっきりと視線の力を肯定する結果が出たものはないようです。NHKためしてガッテンでは、番組中に視線の有無を当てる実験を100回行い、正答率59回だったそうです。残念ながら、これは統計上の有意水準5%をすらクリアしていません。こんな簡単に取り組める実験なのに、有意な結果が出たのが知られていないのですから、残念ながら人間には「見られている」ことを感じる超能力はなさそうです。

しかし、「見る」という行為には、呪術的、と言っていい力が隠れていそうです。折口信夫が言うように「直観力の大切さが、今こそ」求められているのかもしれません。