どの辺からが天であるか、無限と空間、道はつながっている

「青い空」とは言えるのに、「青い天」と言えないのは、なぜでしょう。「天気」と「空気」の意味の違いはどこから来るのでしょう。今日は、「天」と「空」の意味の違いと、高見順の詩を検証することで、神秘へと至る道について考えます。

どの辺からが天であるか
とびの飛んでゐるところは天であるか


人の眼から隠れて
こゝに
静かに熟れてゆく果実がある
おゝ その果実の周囲は既に天に属してゐる

高見順の詩「天」より〉

 たった六行の短い詩ですが、大変深い思いのある詩です。天というのは空とは少し違います。空という名詞は言ってみれば物理的ですが、天には抽象的な意味があって、空のように科学的な割り切りができないところがあると思います。古来、天とは神々の住むところであり、太陽も月も拝む対象であったわけですから。
 この詩でうたわれている天は、人間の知恵のとどかないところ、非常に高みにあるところで、せいぜいおまけして鳶が飛んでいる辺りまで。しかし、秋になって熟れていく果実にも人の知恵の届かない神秘を感じて、詩人は、熟れた果実のまわりもまた天に属しているといっているわけです。

財部鳥子詩の贈りもの12ヶ月(秋、冬)』より

「天」と「空」には、分かりやすい、はっきりした意味の違いがいくつかあります。まず、それについて考えましょう。なお、語義は新明解国語辞典から採りました。

まずは漢字を成り立ちをもとにして考えてみます。「天」は指事文字です。「大」の字に立つ人間の頭の上部に─線を書いたもの。一方、「空」は「穴かんむり」に「工」をつけた会意&形声文字です。「工」は上下二線に|線で、上下の面に穴をつきぬくという意味。「穴」と「工」で、「中に何もないこと」を示します。

すなわち、「天」は抽象概念であり、人間と対比されてはるか無限の彼方にあるもの。一方、「空」は具体的な空っぽの空間であり、その中に人間が入っているものです。

「天」には「天地万物を支配する神」「人間の力ではどうすることも出来ない、大自然の働き」の意味があります。引用文の言う「神々の住むところ」という感じですね。例えば「天は二物を与えず」「天の恵み」「天の時」「天命」など。これは人間の手の届かないものであるものが神だからでしょう。仏教では、「天」は六道の一つです。ちなみに、世界で最も上に位置するとされるのが「有頂天」。

「空」には「わざとそのふりをすること」「そのように見えながら、真実はそうでないこと」などの語義があります。例えば「空とぼける」「他人の空似」「空耳」「空寝」など。これは、根拠が空っぽであるということです。

新明解国語辞典では、「空」の項に「その人が現在その中に身を置いている境遇〔自分に関連して思い出す対象として言うこともある〕」という面白い説明があります。「旅の空」「故郷の空〔=望郷の対象としての故郷の方〕」などの例が挙げられています。また、「〔移りやすいものと見た〕 天候」という語義では、「女心と秋の空」が例示されています。このへんの語釈は新明解らしさが光っています。ともあれ、「空」というのは、人間が入れる空間とみなされていることが分かります。

「青い空」とは言えますが、「青い天」とは言えません。これは、「空」が具体的なものであるのに、天が抽象的なものだからです。また、「天」はもともと無限概念ですから、「遠い天」「広い天」とは言えません。一方、「遠い空」「広い空」とは言えます。

「天気」は人間の力の及ばない気象現象です。「空気」は手を伸ばせば届くところに充満している目に見えない物体です。

「天まで届く」とは言いますが、「空まで届く」とはあまり言いません。「空」は我々の所属する空間であって、目の前に既にあるからです。「空を飛ぶ」とは言えますが、「天を飛ぶ」とは普通言いません。「天」は人が届くところにないからです。

天文学で「天」と言えば、「天球」のことです、天球というのは、すべての星がその上に乗っているとされる仮想の球面で、実際に存在するものではありません。

ドラクエ5を漫画化した幸宮チノの『ドラゴンクエスト 天空物語』では、主人公である双子の王子の名がテン、王女の名がソラでした。テンは「伝説の勇者」であり、ゲーム中、ただ一人「天空の武器」を装備することができます。んー、あんまり関係ありませんでした。

さて、このように「天」と「空」を二項対立で明快にぶった切ってみたわけですが、そこにやってきたのが高見順の痛烈な一撃です。

「どの辺からが天であるか」

ど、どの「辺」ですか? いや、「天」は抽象、無限なもの。一方、「空」は具体、有限なもの。「天」と「空」は完全に分かたれていて、その区別は「辺」などというぼんやりしたものではないのではないかと……。

いやしかし、考えてみると「熟れてゆく果実」とは、せいぜい数十種類の元素の結合であり、所詮は具体、有限なものに過ぎません。しかし、それは確かに人間の手の届かぬもの。そこに宿る命の神秘は人知を超越したものです。有限なシナプス結合から「意識」が創発してくるときにも、同じような有限から無限へのなめらかな変化が起こるのかもしれません。

高見順は「鳶の飛んでゐるところは天であるか」とか「その果実の周囲」などの言葉を重ねることで、この有限から無限への変化が、あくまで定量的なもので、決して定性的でないと言おうとしているかのようです。神秘への道は、悟りとかジャンプとか飛躍とかいう不連続なものではなく、今ここからなだらかにつながっているのだと。

「生命」とか「意識」のようなものは、「人の眼から隠れて」いるものです。すなわち、その本質的な原理を人間が理解することは、おそらくできぬのでしょう。しかし、我々卑小な人間も、手の届く有限の空間の可能性を追求することで、「天」に属するところまで飛翔できるのかもしれません。