シュレーディンガーの縄文杉、3つの力学、構造が色めく瞬間

縄文杉を見にくる観光客によって縄文杉は傷つけられます。しかし、それでも縄文杉を見たいのだとしたら……。今日は、我々が世界を抽象化した理論として理解するとき、本当の人間性がその理論と理論の間隙に現れることについて考えます。

縄文杉を見に行く奴は悪人ですよ」
 この言葉はつぎの日の夕方のことだった。縄文杉は結局あきらめて川崎さんの弟の稔さんの案内で標高千メートルあたりの原生林を数時間歩いて帰ったときに、前の日の私との会語の答えのようにして言われた言葉であった。
 縄文杉縄文杉と言いつづけていた私は、冷水をかけられたようだった。
 原生林の表土は脆い。斜面に立っている縄文杉のまわりの表土は人が一歩踏むごとに少しずつ崩れ落ちてゆく。たった十九年前に発見されたばかりの縄文杉だが、すでに縄文杉の根が露出してきているという。縄文杉を見やすくするために周りの木を伐ったことも表土の保持を悪くしている。土寄せをする話があるそうだが、そんなことで七千二百年のいのちが支えられるのだろうか。そう川崎さんは言う。このまま人びとが縄文杉を見に行けば、まもなく縄文杉は枯死してしまう。観光客の縄文杉見物が多いのだが最近は町でも縄文杉を見る催しをしたりして、そんなときには何百人もの人が表土を踏み崩してくる。
縄文杉をこれからも生かすには周囲一キロぐらいは立入り禁止にするしかないのです」

高田宏『島へ――12の旅の物語』より

わざわざ説明することなど何もなさそうですが、「縄文杉」とは屋久島にある日本最大級の屋久杉。幹の周長は16メートル以上。引用文には「七千二百年」とありますが、最近の研究では、もう少し若い木であるようです。若いったって、樹齢3000年とかそういうレベルですから、「縄文」の名は伊達ではありません。

縄文杉の周辺は世界遺産に登録されています。また、映画「もののけ姫」のモデルとされる屋久島の自然は人気が高く、この縄文杉にも、一時期は年間4万人を超える観光客が訪れ、引用文にあるような被害が発生していました。1996年に展望デッキが作られ、現在では、じかに縄文杉に触れることはできません。

それでも、縄文杉の皮を剥ぎとる痴れ者は後を絶たないようです。私などは、周囲にピカチュウ10まんボルトぐらいの高圧線でも張り巡らせて、禁令を破って近づくうつけ者は縄文杉の肥やしになってもらってよし!と思う人間ですが、それはさておき、今回の話題は、縄文杉に敬虔な気持ちを抱きながら、にもかかわらず、表土を踏み崩し縄文杉を傷つけることになってしまう苦悩です。

尾瀬の湿地帯も似たような問題をかかえていました。観光客の増加により、単純に希少な植物が踏み荒らされるだけでなく、観光客のもちこんだ外部の植物の種子により、希有な植生バランスが崩壊するというような事態も発生していたようです。

筆者は「縄文杉を見に行く奴は悪人ですよ」という言葉を聞いて、大きなショックを受けています。筆者は、縄文杉を見るだけのつもりでした。それが縄文杉を傷めることになろうとは考えもしなかったことでしょう。メディアスクラムにちょっと似ているところもあります。取材することが取材対象を傷つけてしまう。

観測行為が観測対象に影響を与える、というこの問題の構造の最も純粋な形は、おそらく物理学の「観測問題」でしょう。ここでは詳細はどうでもいいのですが、大ざっぱに言うと、量子の状態は一つに決まっているわけではなく、いくつもの可能性が確率的に重ね合わせられた状態であり、それが観測した瞬間に一つに決定されるということです。例えば、シュレーディンガーの猫などが有名です。

この「観測が物体の状態を決める」という命題は明らかに異様です。それは、我々の日常生活での知見と相容れないからです。目の前のボールをいくら見つめても、別にボールに変化は生じません。もし、ボールが動いたら、それは超能力というやつです。私は蒙昧なる小学生時代、超能力の修行と称して「1出ろ1出ろ」と念じつつサイコロを振りまくったというビターメモリーをもっていますが、それと同レベルの愚かなことを量子力学は主張するのでしょうか。

我々の日常レベルの物体の運動を記述するのに、最も有効なのはニュートン力学でありましょう。この理論のおかげで、人類は工業文明の恩恵にあずかれると言っても過言ではありません。このニュートン力学には「観測」などといういかがわしい言葉は一切出てきません。では、量子力学ニュートン力学ではどちらが正しいのでしょうか。

結論を言えば、量子力学です。ニュートン力学量子力学の「近似」として正しいのです。正確に言えば、量子力学の主張するような現象は、我々の日常レベルにもあるのですが、しかし、その効果があまりに小さいので「無視してよい」ということです。つまり、これは、スケールの問題なのです。

同じことが、ニュートン力学と熱力学のあいだについても成立します。ニュートン力学は、分子一つ一つの運動を記述できますが、例えば、気体のような膨大な分子の集合体の性質を考えるときは、「熱」「圧力」「エントロピー」と言った、ニュートン力学にはない概念をもって来ることが有効となります。

熱力学の第二法則は、例えば「低温から高温へ、熱が流れることはない」などと表現されますが、ニュートン力学のレベルで、これを証明することはできません(例えば、マクスウェルの悪魔)。現実にはテーブルの上のコップに入った水が突然沸騰を始めることはありませんが、ニュートン力学は、そのような状態が生じうると主張します。では、ニュートン力学と熱力学ではどちらが正しいのでしょうか。

結論を言えば、ニュートン力学です。熱力学はニュートン力学の「近似」として正しいのです。正確に言えば、ニュートン力学の主張するような現象は、我々の日常レベルにもあるのですが、しかし、その発生があまりにマレなので「無視してよい」ということです。つまり、これは、スケールの問題なのです。

縄文杉の問題に戻れば、我々の一歩は間違いなく木を傷めていることでしょう。しかし、日常レベルでは、そんな些細なことは「無視してよい」ということです。よって、我々は、「木のそばに行って、木を観察することは、木を傷めない」という理論をつくりあげ、それに従って生きているのです。ところが、縄文杉の場合は、スケールが変化しています。そのため、本来無視してよいはずの木に対するダメージが顕在化したのです。

ここで、結論として、我々は、近似に頼ったり、細部を捨象したりすることなく、ものごとをすみずみまで把握する必要があるんだッ!とか言って終われればラクなのですが、そうもいきません。すべてを把握することなど不可能で、どこかで抽象化する必要があります。我々は、熱エネルギーという概念によって、みそ汁の温度を把握し、舌に心地良い温度をさぐっているわけですが、こんなところに量子力学をもちこむことは不可能です。晩食のたびに、量子の経路積分をしろというのでしょうか。

引用文の筆者の苦悩もそこにあります。筆者が日本の環境大臣縄文杉の損傷を防ぐ立場であれば、入山禁止でもすればよいでしょう。しかし、筆者は同時に一人の登山客であり、縄文杉にまみえることを心待ちにする人間です。そこに、矛盾があります。そして、それはひどく人間的な悩みであると思います。

具体から抽象にかけての階梯の中には、確立されたさまざま構造があります。例えば、おそらくこの文章を読んでる人のディスプレイは「ドット」の集合体でしょう。「ドット」という言葉の表すものははっきりしています。また「線」という言葉の意味を深く問う人間もあまりいないでしょう。ですが、「ドット」の集合を「線」と抽象化する脳の認知システムは大変興味深いものがあります。「ドット」と「線」という、それぞれでは明確なように見えた構造の「間隙」に、ひどく人間的な問題が隠れています。

また、「線」が集まって「字」をなす瞬間を考えましょう。例えば「字」という字は「ウかんむり」に「子」ですが、白川静によれば、これは先祖のみたまや(ウかんむり=家)において、子が初めて先祖に謁見する場面であり、そこで子は氏族の一員であることを承認され、「字(あざな)」をもらうということだそうです。このような呪術的思考を人間的と言わずして何とよべばよいでしょう。Amazon白川静漢字百話』のレビューに、「白黒の文字が色彩を帯びているように感じました」という文章がありましたが、実に言い得て妙です。

冒頭に引用した文章の筆者、高田宏は、屋久島の森を歩き、森そのものが一つの生命のようであったと感じます。引用します。

 暗い森だった。荒々しい森だった。どれが何の木か見分けもつかない。苔が幹を覆い、木が木に生え、太いヤマグルマが巨木を這いのぼっていた。森のなかの吊橋を渡るときには岩のあいだを走る水の音があったが、森はその音も吸いとってしまう。暗い森の底には雪が光った。
 木の生命力があふれていた。公園や寺社の境内で見る木とはまるで別のものだった。一本一本の木が、見る私を初めはおびえさせるほどの原始の顔を持っていた。だがそれ以上に、森そのものが一つの生命のようであった。それは一本一本の木を越える何かだった。私は森という生きものの内部を歩いていた。

「一本一本の木」から「一本一本の木を越える何か」への跳躍にこそ、人間としての筆者の感動がこめられています。一つの構造が複雑さを増し、やがて、次の構造へむけて匂い立ち色めく瞬間、そこにこそ本当の人間性は隠されています。