しっかり死んでください、空っぽの指示語、光の言葉

大江健三郎さんの長男、大江光さんは、おばあちゃんに「しっかり死んでください」と言ったそうです。この不思議な言葉は、いったいどんな意味をもつのでしょう。今日は、「しっかり」の語源を妄想することで、この言葉の放つ光について考えます。

 もうずいぶん以前のこと、家族みなで四国の森の村に帰省したことがあった。長男は祖母になじんで、とくに二人が一緒に過ごす時間が長かった。
 そして東京へ発つ日、帰りの飛行機のなかで娘がしきりに気にかけていることがあった。家を出る時、光はおばあちゃんにそれも大きな声で、――元気を出して、しっかり死んでください! といったというのだ。
 ――はい、元気を出して、しっかり死にましょう、しかし、光さん、おなごりおしいことですな! と母は答えたそうなのだが……
 そのうち光は妹とよく話し合った上で、電話で訂正することになった。かれが次のように受話器へ向けて話している間、家族みなが脇に集まって、故郷の村での母の反応をはかるようであったことを覚えている。
 ――誠に失礼いたしました、言い方が正しくありませんでした! 元気を出して、しっかり生きてください!
 母は笑って受けとめてくれている様子。彼女はその後大病して、幸いにも恢復かいふくしたが、しばらくたった後、世話をする妹にこういうことをいったそうだ。――自分が病気である間、いちばん力づけになったのは、思いがけないことに、光さんの最初の挨拶であった。元気を出して、しっかり死んでください! その言葉を光さんの声音のままに思い出すと、ともかく勇気が出た。もしかしたらそのおかげであらためて生きることになったのかもしれない。

大江健三郎いかに木を殺すか』より

こんなに人を力づけるすばらしい言葉について、私ごときがごちゃごちゃと書きつらねるのは気が引けるのですが、ともかく、今回の話題は、この「しっかり死んでください」という言葉についてです。

私も、この言葉にならって、ぜひ、しっかり死にたいと思うのですが、いったいどうすればしっかり死ねるのかよく分かりません。「死んでください」というところは、たぶん誤解のしようがないと思うので、「しっかり」というところが大切なように感じます。

さて、「しっかり」とは、どういう意味なのでしょうか。

「しっかり」は「確り」と書きます。広辞苑で「確」という字を訓読みで使う語を検索してみると、「小確(こじっかり)」「確確(しかしか)」「確と(しかと)」「確と(しっかと)」「確り者(しっかりもの)」「確か(たしか)」「不確か(ふたしか)」などが出てきます。「しっかと」の項に「シカトの促音化」とあるように、「しっかり」は古くは「しか」の形であったのではないかと考えられます。

「たしか」は「た」という文字が余計ですが、これは強調の接頭語でしょう。「なびく→たなびく」「やすい→たやすい」のようなものです。

この「しか」の古い用例を調べてみると、有名な、万葉集山上憶良やまのうえのおくら貧窮問答歌が見つかります。

しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて あれをおきて 人はあらじと 誇ろへど」というところです。「咳をしながら、鼻をぐずぐずとならし、貧相なヒゲをなでて、オレほどの人間はいないと誇ってみても」というところ。そくそくとせまってきますね。1500年ごときの年月では、山上憶良という天才の価値は失われないということがよく分かります。

この「しかとあらぬ」ですが、万葉集にもう一つ出てきます。大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめの歌。「しかとあらぬ 五百代小田いほしろをだを 刈り乱り 田廬たぶせに居れば 都し思ほゆ」です。歌意は、「わずかばかりの五百代の田を刈り乱して田の小屋にいると、にぎやかな都が思われる

万葉集は万葉仮名で書かれているわけですから、この歌はもともとはすべて漢字です。Virginia大学の提供しているデータで確認すると、原文は「然不有 五百代小田乎 苅乱 田蘆尓居者 京師所念」であるようです。「しかとあらぬ」は「然不有」です。おや? 何か変ですね。

「しかとあらぬ」が「然不有」だということは、「しか」は「然」と表記されているわけです。山上憶良の「しかとあらぬ」は「志可登阿良農」ですので、ただ音を写しただけですが、大伴坂上郎女の「然不有」は意味を表したものです。どちらの歌の「しかとあらぬ」も意味としては「しっかりとしていない」と解釈して問題なさそうです。ということは、万葉集の時代は「しか」は「確」だけでなく、「然」でもあったということでしょうか。

ところが、ここで大問題が発生します。「しかり」と「しかり」では意味がまったく違うのです。「しか」というのは「そう」「それ」にあたる指示語なのです。「しっかり」とは全然関係ありません。

例えば、人と別れるとき、昔は「しからば御免」と言いましたが、この「しからば」は「それならば」という意味で、「さらば」と同じです。「さようなら」の「さ」も同じ指示語です。「それじゃ」というのも「それでは」がくだけた形です。つまり、「しからば」「さらば」「さようなら」「それじゃ」は、すべて同じ語の成り立ちをしているということになります。

また、「しかし」というのは「しかしながら」の短縮形ですが、この「しかしながら」というのは、「しか+しながら」です。すなわち「そうしながら」です。ですから、「しかれど」「しかるに」「されど」「それなのに」などはすべて同じ語の成り立ちです。

ともあれ、あわてて結論を出す前に、「しかり」と「しかり」が本当に違う言葉なのかよく考えてみることにしましょう。

さきほど出てきた「しかあらぬ」と似た単語として「しかあらじ」というのが源氏物語に出てきます。「帚木」で、光源氏頭中将とうのちゅうじょうが女性についての意見をかわす場面です。くわしくは、原文與謝野晶子訳を対照してもらうこととにして、結論だけ書きますと、この「しかあらじ」の「しか」は指示語の「しか」と解釈するのがふつうです。例えば、全訳読解古語辞典では「しかあらじ」を「そうではあるまい」と訳しています。

この場面で頭中将は、男はえてして女性の評判にだまされやすいので、仲介役の人間が女性を大げさにほめることに対して「しかあらじ」とはなかなか言えないものだ、と語っています。ところが、この「しかあらじ」の使い方をよく考えてみると、「しかあらじ」を「(その話は)そうじゃないでしょ」と訳してももちろん大丈夫ですが、「(その話は)しっかりしていない、あやしいなあ」と訳しても意味が通りそうです。

さきほどの「しかあらぬ」も、全訳古語辞典は「それというほどでもない」と訳しています。「しかあらぬヒゲ」なら「それほどでもないヒゲ」ですね。どうも、「確かだ」という意味の「しか」と、「それ・その」という意味の指示語の「しか」は意味が似ているような気がしてきました。

拾遺和歌集に次のような歌が出てきます。「しかばかり契りしものを渡り川帰るほどには忘るべしやは(あれほど約束したのに、三途の川から引き返す間に、約束を忘れるだろうか)」この「然ばかり」は「あれほど」「そんなにまで」の意味ですが、「しっかり約束したのに」という意味にも取ることはできます。

万葉集に「三輪山しかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや」という額田王ぬかたのおおきみの歌があります。「三輪山をそのようにすっかり隠すのか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしいものだ」が歌意です。この訳は全訳読解古語辞典の訳ですが、「しかも」を「そのようにすっかり」と訳さねば意味が通らないことが分かります。

現代で生きている「しか」には「しかるべき」があります。この語は、もともとは「そうなるべきである」という意味ですが、今では「ふさわしい」という意味で用います。「しかるべき医者」を「しっかりした医者」としてもおかしくはないでしょう。

どうやら「しっかり」と「しかり」には、強い関係がありそうです。そうなると、「しっかり死んでください」という言葉の意味はどうなるのでしょうか?

しかり」というのは、「そうである」「そのようである」「そのとおりである」という意味の言葉です。これは、存在を肯定し、ものの本分を尽くすことです。

例えば、「しっかり食べる」という言葉は、出されたものをえり好みせず、しかも残さず食べるというニュアンスがあります。「気をしっかりもつ」という言葉は、自分が自分であることを見失わず、周囲の出来事にうろたえるなということでしょう。

「しっかり」という言葉の本質は、「そのものが、そのものであるように」ということです。変に作為をろうしたり、信念に縛られたり、価値判断にとらわれたりすることなく、ただ、そこにあるがままに、そのようにあれということです。

これは何も指していない空っぽの指示語です。いわば、言葉でない言葉です。つまり「生」というものを他のなにかに置きかえることなく、そのまま受け入れよということです。

ということは、どうやら「しっかり死ぬためにはどうすればいいんでしょうか?」という最初の問題設定そのものが、既に違っていたということです。「しっかり死ぬ」というのは、そのための特別に何かをするということでなく、今の自分がそのままで自分の人生の主人公として人生を全うせよということです。

引用文で光さんは、おばあちゃんにむかって「しっかり死んでください」と声をかけました。それはおばあちゃんに、努力しろとか、工夫しろとか、成長しろとか言っていたのではありません。もちろん「確実に死ね」と言っていたわけでもありません。この「〜ください」は、実は命令でも依頼でもないのです。

この言葉は、おばあちゃんという存在とこの世界を丸ごと受け入れた上、そのままで、ただそうであるがままで、あなたという生はよきものであるのだと、伝えているのです。これほど勇気づけられる言葉もめったにありますまい。まさしく光の言葉です。