なぜ大切なものは見えないか、脳がつくる世界、全部の星に花が咲く

「大切なものは目に見えない」というのはよく聞く言葉ですが、なんだか分かったような分からぬような言葉です。今日は、人間の脳の機能から切り込むことで、どうして大切なものが目に見えないのかについて考えます。

 では、「見えないもの」が、しばしば、「高級なもの」であるのは、どうしてか。抽象的な概念は、すべて「目に見えない」。それは、そうした概念が、耳に聞こえず、鼻に臭わず、手に触れないことと、同じことである。なにもそこで、目だけを特別扱いすることはない。そうした概念は、脳の中では、目や耳や鼻といった、もろもろの感覚器に直接関与する部分ではなく、連合野と呼ばれる、それ以外の部分に位置するからこそ、われわれはそれを、「目に見えない」というのである。もちろん、それなら、「聞こえない」し、「臭わない」し、「触らない」と言ってもいい。なぜ、そう言わないか。
 そこでは、人の特質が関係するであろう。それは、目がきわめてよく発達している、ということである。

養老孟司脳に映る現代』より

つうことで「大切なことは目に見えない」です。この言葉は、もう『星の王子さま』のものだ、ということでいいんじゃないかと思いますが、どうでしょうか。ちなみに、私が最も好きな山崎庸一郎訳『小さな王子さま』だと、この言葉は次のように登場します。

「重要なものは目には見えないんだ……」
「そうだね」
「花だっておなじなんだ。もしあなたがある星のある花を愛したなら、夜、星空をながめるのが楽しくなるよ。全部の星に花が咲くんだ」

さて、「大切なことは目に見えない」。こういう漠然とした話を理解するためには、具体例を考えるのが何よりです。例えば、「夢」はどうか? 「抱負」とか「目標」の意味の夢ですよ。夢は見るもののはず。ならば、「夢」は大切じゃないと、君はそう言うのかね、えっ?

いや、確かに「夢を見る」とは言いますけど、実際に肉眼でもって「夢を見た」人はいませんな。この「見る」という言葉は、文字通り、肉眼を使った「見る」なわけです。

しかし、そうなると、いろいろ疑問が湧いてきます。例えば、「家族」は大切ですよね。ならば、家族は見えないのでしょうか? ここで、そういえば、最近、オヤジの姿が見えないなあ、などと思った人は、さっさと警察に行くことをお薦めします。それは、事件です。

いや、オマエ、それは違うだろ。家族ってのはさ、別に身体だけあってもしょーがないわけじゃん。なんていうかなあ、心のふれあいっていうか、ほら、こう、愛だよ! 愛! という反論が当然出てくると思います。すなわち、「大切なもの」というのが物であるかないか、などはどうでもよく、それにまつわる人々の思いが重要だ、というわけです。

ならば、「お金」は大切でしょうか? 確かに大切ですが、この「大切なものは目に見えない」という言葉のいうところの「大切なもの」とは、少し違うような気がしますね。しかし、お金だって、単に「物」というだけで価値があるわけではありません。

例えば、明日地球が終わるとき、お金に価値はあるでしょうか? ビル・ゲイツが全財産をはたいて地球脱出用ロケットを買おうとしても、たぶん売ってくれる人はいないでしょう。「馬をくれ、馬を! かわりにこの国をくれてやるぞ!」と叫んだリチャード三世のように。つまり、お金というのは、世界は永遠に続くはずだ、という人々の信頼が担保になって、その価値を保っているのです。

つうわけで、この言葉の意味がだんだん分からなくなってきました。ここらで、養老孟司に助けをあおぐことにしましょう。

養老孟司は、「抽象的なもの」が「目に見えない」と表現されるのは、まず人間が特に目を発達させているだけで、特別な意味はないと指摘します。抽象的な概念は、「もろもろの感覚器に直接関与する部分ではなく、連合野と呼ばれる、それ以外の部分に位置する」とのことです。

なるほど、確かに「大切なことは目に見えない」というときは、その「大切なこと」には音も匂いも手ざわりもないようです。「大切なことは目に見えない。だから、味わえ! 『夢』は舌の上でまったりと花開きそれでいてピチピチと……」などと議論が展開するのを、私は見たことはありません。養老孟司は、そのような、感覚器で感じとれない概念は、脳の中では「連合野」という場所で処理される、と指摘しています。

はて、「連合野」というのは何でしょう?

ここらで、脳の基本構造について、ざっくり復習しておきます。脳は三層構造になっています。脳の最下部には、本能をつかさどる脳幹と大脳基底核(ワニの脳)。そのまわりに、感情をつかさどる大脳辺縁系(ウマの脳)。最も外側に、記憶・判断・意志をつかさどる大脳新皮質(ヒトの脳)があります。

連合野」は、この最後の大脳新皮質の中にあります。特に前頭葉の中にある前頭連合野は、自我と意識の主座、人間を人間たらしめる立て役者、創造性など高度な精神活動をつかさどる最重要な部位です。つまり、「ヒトの脳」、ひいてはヒトを特徴づける場所であると言っていいでしょう。

というわけで「大切なことは目に見えない」というのは、「大切なことは、前頭連合野で処理される」と言い換えても、よさそうです。さーあ、「あるある大辞典」みたいな、うさんくさい話になってまいりました!

というわけで、まとめてみますと、「見えない」ものを処理するためには、かなり発達した脳が必要であり、それはヒトの脳をして初めて可能であった、ということです。であれば、「大切なことは目に見えない」のはなぜか? それは、「目に見えない」ものが最も「人間らしい」ものだからだ、と言えるかもしれません。

さて、この怪しさ満点のヨタ話を川島教授の「脳トレ」レベルぐらいにはヴァージョンアップさせるために、もう一人、援軍を呼びましょう。池谷裕二進化しすぎた脳』です。

この本にめちゃくちゃ面白い例題が載っていますので、臆面もなく丸パクリさせていただきます。まず次の単語のリストをながめて、何があるか簡単に憶えておいてください。

「苦い 砂糖 クッキー 食べる おいしい 心 タルト チョコレート パイ 味 マーマレード 甘ずっぱい ヌガー イチゴ 蜂蜜 プリン」

さて、今、前頭連合野が大事なんじゃね? という話をしていたわけですが、では、この前頭連合野はどんな働きをしているのでしょうか。それを理解するためには、逆に、前頭連合野が事故などで破壊されたらどうなるかを考えればよいでしょう。

ンなもん死ぬでしょ、と思うところですが、奇跡的に生きていた人がいます。フィネアス・ゲージ。1848年、太さ3cmの鉄の棒が頭蓋骨を貫通したにもかかわらず、生存したアメリカ人がいたのです。

東京都神経科学総合研究所のサイトに写真つきで紹介されています。こんなもん貫通して、よう生きとったな君は、という感じの鉄の棒の写真も圧巻ですが、なにより興味深いのは、この事故により前頭連合野を破壊されたゲージの変化です。彼は、記憶が無事だったにもかかわらず、性格が激変してしまったのです。

事故にあう前のゲージは、周囲から尊敬される人間でしたが、前頭連合野を破壊されたゲージは、粗野で下品な男に変貌していました。無礼になり計画性がなくなり、まるで動物のようになってしまったのです。

このような、前頭連合野の破壊によって起きる症状を「前頭葉症状」と呼びます。「ヒトの前頭連合野の病床に伴う症状」を解説したサイトを見ていると、「人間らしさとは何か?」について、ヒントが得られるような気がします。

前頭連合野は、人間の「個性や性格、心や意識」を生む場所であると、多くの脳科学者に信じられているそうです。

さて、ここまでの議論では、「実際に感じたこと」と「それに対する脳の反応」を区別して考えてきました。

「実際に感じたこと」というのは「見えるもの」です。「それに対する脳の反応」は「見えないもの」です。大切なものは後者である、ということです。

このことについて、もう少しつっこんで考えてみます。

さきほど見ていただいた単語のリストを思い出してください。次のうち、どの単語があったか憶えていますか?

「堅い 味 甘い」

ぱっと見て、「甘い」と答えられると思います。私も同じ答えでしたので、ともかく読者全員そうなんだとみなして、話を進めます。

ここで、さくっと上のほうにスクロールしていただくと、実は単語のリストに「甘い」はなかったことが分かります。あったのは「味」です。ということは、我々はなかったはずの「甘い」という単語を「見た」ということになります。

これは脳の働きです。「はん化」といいます。脳は上記の単語リストに「甘いもの」という共通点を見つけて、一般化してしまったわけです。つまり、脳は世界をありのままに見ているわけでなく、自分なりに解釈したあとで見ている、ということになります。

こうなってくると、「見る」という言葉の意味が分からなくなってきます。

池谷裕二は指摘します。「世界を見るために目ができた」のではない。「目ができたから世界ができた」のだ。はて、どういうことでしょうか。

例えば、すべての色は赤・緑・青の三原色の組み合わせによって生み出されることは、よく知られています。そして、人間の網膜には、その赤・緑・青の三色に対応した色細胞があるのです。これは、驚くべき生命の神秘です。

ところが、池谷は、そんなことは当たり前である、と言います。人間の網膜にあるのが、赤・緑・青の三色に対応した色細胞であったからこそ、人間にとって光の三原色は赤・緑・青になったのだ。もし、人間が赤外線を見ることができたのなら、光は三原色ではなかったはずだ。

光は直進する、というのは小学校で習う常識です。しかし、もし、人間が可視光線としてラジオ波を使っていたら、どうか? ラジオ波は屈折しやすいから、建物の向こう側も見えてしまう。そうなれば、単純線形な物理法則は成り立たない。

我々が世界をどうとらえるかが、世界のありかたを決めている。世界は脳のなかでつくられる!

いやー、これはめちゃくちゃ面白い話です。しかし、だったら、「見る」ということは、どういうことなんでしょうか。我々が「見ている」世界というのは、脳の中でいったん再構成された世界なんですよねえ。我々は、何を「見ている」んでしょうか?

少し整理します。まず私は、「大切なものは目に見えない」というときの「見えないもの」とは、「感覚器から入ってきた情報を脳の中で処理したもの」というふうに理解しました。意志とか判断とか感情とかです。それを行う代表的な部位として前頭連合野を挙げました。

ところが、実は、我々には、「純粋な感覚」、すなわち、世界をあるがままに、ありのままに感じた「感覚」などというものはなかったのです。我々は、見たものを、とにかくすべて脳で再構成しているのです。

だとすれば、世界は、もともとすべて「見えないもの」である、ということになります!

となると、「大切なものは目に見えない」という言葉は、しごく当然の、単なる自明な命題であったわけです。別に証明する必要などありません。しかし、当たり前のことをわざわざ言うからには、何かしら意味があるはずです。

例えば、「人間は死すべきものである」というのは、当たり前です。しかし、この言葉をわざわざ言わなくてはならないということは、我々が「人間とは死すべきものである」ということを忘れてしまっているからでしょう。つまり、我々は「大切なものは目に見えない」ということを忘れてしまっている、ということです。

ここで、もう一度議論を整理します。我々は、自分の外に客観的な「世界」が存在していると信じています。そして、我々はその「世界」を「見る」ことによって、何事かを思考しているわけです。ところが、その我々の「見ている」世界というのは、実は既に変形され、色眼鏡によって歪められた世界であった、ということです。

そして、おそらく「大切なもの」であればあるほど、変形されるのでしょう。

なんで、「お金」は大切なものではないのでしょうか。それは、お金というものを認識するやり方やお金の価値というものの意味が、人によってあまり変わらないからです。「家族」はなぜ大切なのでしょうか。それは、家族というものを認識するやり方や家族の価値というものの意味が、人によって千差万別だからです。

ですから、この「大切なものは目に見えない」という言葉はこう解釈できます。大切なものほど、脳の主観によって解釈され、変形され、新しく創造される。すなわち、「見えない」ものとなっている。ところが、私たちは、それを忘れがちであり、自分が世界をありのままに、みんなと同じように見ていると錯覚してしまう。でも、それは誤りだ。そう、

大切なものは、目に見えない。

ここで、もう一度『小さな王子さま』の会話を引用します。

「重要なものは目には見えないんだ……」
「そうだね」
「花だっておなじなんだ。もしあなたがある星のある花を愛したなら、夜、星空をながめるのが楽しくなるよ。全部の星に花が咲くんだ」

王子さまは、「全部の星に花が咲くんだ」と言いました。「全部の星に花が咲いているような気持ちになる」と言ったのではありません。花は本当に咲くんです。

だって、あなたが花を愛したとき、全部の星に花が咲く世界が、あなたによってつくられるのですから。

「人一倍」は何倍か、いちにさんし よんさんにいち、言葉という生命

「いち、にー、さん…」と、10まで数えてください。今度は、「じゅう、きゅう、はち…」と、1までお願いします。今、4と7の読み方が変わりませんでしたか? どうしてですかねえ? 今日は、数字を含んだ慣用表現にまつわる小ネタを中心に、言葉という生命について考えます。

 南部に歯取る唐人ありき。或る在家人の慳貪けんどんにして、利簡を先とし、事に触れて、商心あきなひこころのみありて、徳もありけるが、むしの食ひたる歯を取らせんとて、唐人が許へ行きぬ。歯取るには、銭二文に定めたるを、「一文にて取りてべ」と言ふ。小分の事なれば、ただも取るべけれども、心ざまの悪さに、「ふつと一文には取らじ。」と言ふ。「さらば、三文にて、歯二つ取りて賜べ」とて、蟲も食はぬ、世に良き歯をとりそへて、二つに取らせてけり。心には得利と思ひけめども、きずなき歯を失ひぬる、大きなる損なり。これは大きに愚かなる事、をこがましき仕業なり。

『沙石集』より

なかなかこう、身につまされる話ですな。だいたい次のような筋書きです。

あるドケチな男が虫歯になった。歯医者は、歯一本を二文で抜くという。男は、金をもっていたくせに「一文でやってくれ」と値切る。歯医者は、少額のことだしタダで抜いてもやってもよかったのだが、男の性根の汚さに、「絶対に一文では抜かない」と言う。男は、「それなら、三文で二つ抜いてくれ」と頼んで、健康な歯も合わせて抜いてもらった。これで得をしたと思っているが、大損だ。愚かだ、馬鹿だ。

まあ、現代の我々も変なオマケに乗せられて、うかうかと商品を買ったりしますから、この男のことをあまり笑えません。「今なら、万能すのこもおつけして、御奉仕価格1万円!」 ……いや、「すのこ」なんかいらないんだよ、ていうか「すのこ」に「万能」とかついてる時点でおかしいんだよ、気づけよ、……オレ。

ところで、この話は、「二束三文」ならぬ「二歯三文」でして、当時の金銭の価値を考えるなかなか面白い資料になります。『沙石集』が成立したのは、1280年前後とされますので、この当時の三文の価値は「抜歯2本分」ということになります。

現在だと、抜歯の値段というのは、最も安い乳歯で1400円+再診料400円ぐらい(保険なし)のようです。となると、2本抜けば、3200円です。三文というのは、けして安くはなさそうです。

「三文」の価値は、言うまでもなく「早起きは三文の得」の意味に直接かかわります。

2chのコピペに、「良い子の諸君! 早起きは三文の得というが、今のお金にすると60円くらいだ。寝てたほうがマシだな。」というものがありました。私は、この「60円」という数字の出所がずっと気になっていました。

「三文」というのは、「二束三文」「三文文士」「三文判」など、安い値段の代名詞ですが、時代によってはひょっとして大金だったのかも!? もし「三文」に3000円近い価値があるなら、ンなもん明日から早起きしまくりですよ!

これをきちんと調べるには、このことわざがいつ頃成立し、その時代の貨幣価値がいくらかを知る必要がありますが、どうもよく分かりませんでした。例えば、江戸時代の貨幣価値については、「一文と一両の価値」という素晴らしいページがありましたが、「1文=5〜50円」ぐらいでかなり幅があります。

ともかく、こういう、数字が入った慣用表現というのは、面白い話題を提供してくれます。いろいろ例を見ましょう。

「人一倍」という言葉は妙です。「一倍」じゃ変わんないじゃんか、と。調べてみると、江戸時代頃は、「a倍」というのは、「元の数にa倍を足した数」という意味で、「一倍」は「2倍」の意味でした。今でいう「2倍」のことは「二層倍」と言ったそうです。江戸時代の算術書『塵劫記じんこうき』の中に「ひにひに一ばいの事」という項目があり、お米1粒を2倍にしていったら、30日目にいくらになるか、という問題が載っています。なお、答えは、5億3687万0912粒。

塵劫記』はなかなか面白いネタが多いです。九九を言うとき、「ににんがし」のように「が」が入るものと、「にごじゅう」のように入らないものがありますが、どうやって区別しているかご存知ですか? 積を計算した結果が1ケタのときは「が」が入る、というのが答えです。これは、九九を算盤そろばんで計算するときにリズムをとるためです。ちなみに「九九」を「九九」というのは、昔は「九九八十一」から数えていたから、だそうです。

「九分九厘」という言い方があります。「九分九厘間違いない」などと使いますが、考えてみると、「9分9厘」では「9.9%」にしかなりません。これは、江戸時代の小数表記には「割」がなかったためです。つまり「十分」で100%、文字通り十分だったのです。これで、「村八分」「一寸の虫にも五分の魂」「五分五分」などの意味がいっぺんに説明できます。

「一本、二本、三本」は「いっぽん、にほん、さんぼん」と読みますが、これはなぜでしょうか。ずばり「なぜ「いっぽん、にほん、さんぼん」なのか?」を考察したサイトによると、日本語では昔「は行」を「ぱ行」で発音していた(「ひよこ」は「ぴよこ」でした!)名残りと、連濁(三日月みかづきなど、合成語の下の語が濁る現象)が重なったためのようです。

井上ひさし日本語観察ノート』に面白い問題が出てきます。1,2,3,4…と数え上げるとき、「いち、にー、さん、し、ごー、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう」と数える人が多いでしょう。では、数え下げるときは? 「じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ごー、よん、さん、にー、いち」ではないですか? 4と7の読み方が変わっています。

井上ひさしによると「わたしたちはふだんの生活の中で数え上げることをよくする。そこで、『しー』『しち』という漢語風の言い方に慣れている。ところが数え下げるカウント・ダウンのはまれで、慣れていない。そこで『なな』『よん』という大和言葉風な生地きじが現れるのだ」とのことです。私には、あまりピンときません。

この問題に対する定説はないようですが、私は、高杉親知さんのサイトにある「日本語の数体系」における考察に説得力を感じました。まず、「四」「七」はかつて「し」「しち」とのみ読まれていました。しかし、「四」を「し」と読むのは、「死」などに通じて紛らわしいので「よん」に、また、「七」を「しち」と読むのは「いち」と紛らわしいので「なな」に置き換えられました。

ところが、「いち、に、さん、し…」という読み方は、既に「決まり文句」になってしまっているため、このまま保存されました。一方、カウント・ダウンをすることは日常ではあまりありません。ですから、慣用的な読み方にとらわれず、合理的な読み方になる、というわけです。

なるほど、確かに熟語として読み方が固定されている場合は、「四」は「し」と読みます。例えば「四十九日しじゅうくにち」、「四十七士しじゅうしちし」などですね。ところが、例えば「四十七人」を読め、と言われたら、ほとんどの人は「よんじゅうななにん」と読むでしょう。

ちなみに、上記リンク先、高杉親知さんのサイトには、日本だけでなく「世界の言語の数体系」もあります。私は、フランス語の記数法(例えば、97をquatre-vingt-dix-sept 4×20+10+7と表す)にうんざりさせられたクチなのですが、そのフランス語も複雑さでは世界19位とされています。1位のフリ語は15進法、2位のンドム語は6進法を基本にした数体系です。おそれいりました。

さて、こうして、いろいろ見てきましたが、これらの言葉たちから共通して分かることがあります。それは、言葉はタイムカプセルである、ということです。古い時代の思考や習慣を閉じ込めて、現代に伝えてくれるもの。それが言葉です。このような文化財としての言葉の役割は、なかなか無視できません。

このタイムカプセルとしての言葉がどう働くか考えたとき、実は言葉には二つの相反する機能があることが分かります。

まずは、当然ですが、概念を保存する働きです。しかし、もし言葉が未来永劫変化せず、昔ながらの姿であり続けるなら、そもそも「早起きは三文の得」という言葉は生まれなかったでしょう。この言葉は、貨幣経済が定着し、労働が美徳となった時代のことわざでしょう。すなわち、その時代の変化を取り入れて新しい言葉を生み出す働きも、また言葉の本質です。

恒常性ホメオスタシス新陳代謝メタボリスム。それが両方そろって初めて言葉は躍動します。これは生物に要求される働きといっしょです。その意味で、言葉が生き物だ、というのは実に納得のいく話です。

しかし、言葉とはおそるべき構造体です。細部を常に変化させつつ、しかし全体として統一された構造としてあり続ける。私自身の身体や意識がまさに同じことをしているわけですが、そこに何が起こっているのか激しく興味をもちます。そして、ニューロンのネットワークから意識が生まれたように、どこかに日本語の「意識」が生まれることはないのか。

とはいえ、今日は言葉にまつわる小ネタ中心の軽い更新にするつもりでした。あまり大風呂敷を広げずに、このへんでシメとさせていただきます。

ギャンブルに「流れ」はあるか、物語を作る生き物、煮つめられた人生

例えば、麻雀をやっていると「ツイてる」とか「ツカない」という感覚に襲われることがあります。「流れ」。はたして、そんなものは存在するのでしょうか。今日は、人間に「流れ」が見えてしまうことの意味について考えます。

 賭博とばくという、冷静に考えれば損にきまっている遊びが、しばしば人々を夢中にさせるのは、そこにいわば煮つめられた人生があるからでしょう。
 偶然というか、運というか、あるいはつきとよぶか、ともかくそれを支配する、眼にの見えぬ何かにいどみ、金銭というはっきりした形で勝ちをしめようとするとき、人は人生の大事を決行するときに似た、戦慄せんりつと快感を味わうはずで、この日常生活では得られぬ充実した生の感覚が(たとえ本当は偽物であっても)賭博の最大の魅力なのでしょう。

中村光夫『知人多逝』

まずは次のサンプルデータを見てください。これは、○と●がほぼ同数出現するように、乱数を使って作成した200個のデータです。101個の○と、99個の●を含んでいます。

【サンプルデータA】

○○●○○●○●●●○○○○●●●○○○●○●○○○○●●○●○○●○●○●●●○○●○●●○●○●●○●●○○○○●●●●●○●○●○○●○●○●○○●○○●●○●○○●●○●●○●○○●●○●○●○●○●●●○●●○●○●○●●○●●○●○○●○○○○○●●○○●○●○○●○●○○●●●○○●○●●○●○●○○○●○●○○●●○●●○●○●○○○●○○●○●○○●●○●○●○●●●●●○●○●

○や●に大きな偏りがなく、まんべんなくバラけているのが見てとれると思います。これは今日の話の基点となるデータなので、よく観察しておいてください。

さて、今日のテーマは、ギャンブルに「流れ」はあるか? です。

ここでは、「流れ」という言葉を、「ある現象が極端に連続すること」というような意味で使うことにします。例えば、先ほどのデータで言うと、○や●が連続で出現するような現象ですね。上のデータはプログラムによって作成したので、極端な好調も不調も見られませんが、現実にはどうなのか? ということです。

「流れ」という言葉は、ギャンブル、例えば、麻雀でよく使われます。麻雀漫画の至宝、片山まさゆきノーマーク爆牌党』から例を取りましょう。この劇中で、主人公が「流れ」について論じているシーンがありました。

主人公は、次のように語ります。赤と緑のビーズ玉をよく混ぜてビンに入れる。このとき、赤と緑は、きれいに混ざるだろうか? いや、ところどころに「ダンゴ」ができるはずだ。その色のかたまりこそが「流れ」であり、自分がどの「かたまり」の中にいるかをつかむことが「流れ」を読む、ということである。

なるほど、「色のかたまり」=「流れ」ですか。

そのことを具体的に考えてみるために、さきほど見たデータAから少し生成ルールを変更してつくったデータBを見てください。こちらにはちょうど100個ずつの○と●があります。

【サンプルデータB】

○○●○○●●●●●●●○●●●○○●○●○○●○●●●○●●○●○●○○○○○○○○●○●○●○○○●●●●●○●●○○●●○○●○○○○●○●○●●●○○●○○○●○○○○○○●●○○○●●●●●●●●○○○●○○○●●●○●●●○●○○○●●●●●○○●○●●●○●●○○○●○●●○○○●●●○○●●●○●●○○○○○●○●○○○●●○●○●●●●●●○●○●●○○○○●○●○●○●○●○○

データAと比べて、こちらのデータBのほうには、かなり明確な「流れ」を感じると思いますが、いかがでしょうか? ぱっと見て、「連勝」や「連敗」がとてもたくさん現れていると感じるでしょう。じっくりながめて、「好調期」や「不調期」などの「偏り」を探してみてください。

では、この「色のかたまり」はどうして生まれたのか?

タネ明かしをしますと、さっき見たデータは、わざと「前のデータの影響を受ける」ような乱数を使ったんですね。直前が○●のどちらなのかによって、次に出る○●の確率が変化するようにしたのです。だから、データBは、データAに比べて「流れ」がはっきりあるように見えるのです。

要するに、非常に偏った、通常ではありえない配列だったのです。データAは。

え? 書き間違い? 「偏っていたのはデータBだろ」ですって? いや、間違ってないですよ。偏っていたのは、データA、最初に見たほうです。

最初に見たデータAは、直前が○だと次は●の出現確率が高くなり、逆に直前が●だと次は○の出現確率が高くなる、すなわち、「流れ」をわざとぶった切るような法則で作成したデータです。一方、あとに見たデータBのほうは、単純に2分の1の確率で○と●が出現している、真の意味でランダムなデータ列です。

ここで、「えー!?」という反応があると嬉しいのですが、ど、どうでしょうか? わざと紛らわしい書き方をして、すいませんでした。でも、嘘は書いていませんよ。

ちょっと言葉を一個、定義しますね。データ列の中で、「○のあとに●」または「●のあとに○」が来たとき、「チェンジ」と呼ぶことにします。ランダムデータの場合、チェンジする確率は当然2分の1です。200回のデータ列の場合、チェンジが生じる可能性がある場所は、全部で199箇所あります。

データAでは、129回のチェンジが行われています。2分の1の確率で生じる出来事が、199回中129回以上起こる確率は、およそ0.0015%です。最初に見ていただいたサンプルAは、そのぐらいありえない偏りをもったデータなのでした。ここまで、「流れのない」データが偶然発生するのは、奇跡に近いです。

一方で、データBのチェンジの回数は、101回です。ほぼ理論平均値通りです。要するに、データBは、「流れ」のあるなしで見た場合、完璧なまでに平均的なデータなのです。

ところが、多くの人は、データAのほうが、データBより「まんべんなくバラまかれている」「ランダムである」と感じると思います。ちなみに、聞くところによれば、人間に手でランダムなデータ列を書かせると、データAに近いものを書くそうです。

さて、いったい何が起きているか? ここで生じたことを一般化して書けば次のようになるでしょう。

人間は、ランダムなデータに偏りを見る生き物である。

要するに、人間は、ただのランダムなデータ列を見ると、そこに「流れ」を読んでしまう、ということです。

「最近、〜を見ることが多くなった」という感慨を、我々はよくもちます。そのうちのいくつかは真実であるかもしれませんが、実はほとんどは単なる偶然の偏りなのかもしれません。なにを馬鹿な! 明らかに、〜が増えているだろうが! そうでしょうか? 我々は、単なるランダムデータに「流れ」を見てしまう生き物なのです。なんか、自信がもてません。

では、最初の質問の答えはどうなるのでしょうか? 「流れ」ははたして存在するのか? 私の答えは、「イエス」です。「流れ」は存在します。

存在するに決まってるじゃないですか。だって、実際みなさんにも「見える」でしょう。もう一度、データAとデータBを見てください。明らかに、データBには「流れ」が「見えます」。見えるものは存在するに決まってます! サンタですら存在するのですから、「流れ」が存在しないわけがありません。

では、なぜ、人間には「流れ」が見えるのでしょうか?

さきほどのデータBには「8連勝」(○の8個連続)が1回登場します。「ある8回中に○が8個続く確率」は、256分の1ですから、これは発生確率0.4%程度の大きな「偏り」です。自分の高校が甲子園でベスト16になるぐらいの確率です。

それでは、「200回中に○が8個続く部分が1回でもある確率」はどのぐらいでしょうか? 計算機に10万回ほど実験させてみたところ、およそ32%ぐらいのようです。別にめずらしくもなんともない出来事でした。

さらに、そもそも数学的には、「8連勝」する確率も、「○●○○●○●●」というパターンになる確率も別に違いはありません。ただ、人間の側が「○○○○○○○○」というならび方を特別あつかいしているだけです。

すなわち、人間に「流れ」が見える、ということの意味は、人間には、この「8連勝」という「特別な」出来事を、200個ならんだデータ列の中から一瞬で見つけだす力がある、ということに他なりません。

この能力。ランダムに発生する大量の出来事の中から、ある一部分を切りとり、それに意味づけをする能力。これは「物語をつくる」能力といえるのではないでしょうか。すなわち、さきほどの主張は次のように書き直すことができます。

人間は、物語を作る生き物である。

したがって、「流れ」はあるか? という質問は、つまるところ、こう聞いているのと同じです。「物語」はあるか? そんなもんあるに決まってます。我々人間にとって、世界とは、単なる事実の集積では断じてない。それは、無数の「物語」によって意味づけされて、初めて世界となるのです。

ですから、「流れ」を読めば麻雀の勝率が上がるのか? などという問いは愚問です。我々は、勝つために「流れ」を読んでいるのではなく、「物語」をつくろうとして「流れ」を読むのです。いや、あの、勝つために「流れ」を読んでいる人もいらっしゃるようですが、その、なんというか、えー、がんばってください。

ところで、もし「流れ」を読むことが、「物語る」ことであり、それが「出来事の中から、一部分を切りとり、それに意味づけする」ことであるという私の考えが正しいのであれば、「流れ」は過去にのみ存在するということになります。

「流れ」は常に過去形で語られる、ということです。キーワードは「やっぱり」です。

さて、「麻雀における流れ」というネタでは、やはり、この方を紹介しないわけにはいきません。麻雀研究家、という肩書きでいいんですかね、とつげき東北さんです。そのHPは、麻雀に強くなりたい方は必見。とりあえず一つだけ読むなら「最強水準になるための麻雀講座:技術的精神論」を推します。

とつげき東北さんの著書『科学する麻雀』のあと書きにこんなことが書いてあります。いわく「『ムダなものにいかに全力を注ぐか』が人生においてもっとも大切なことである」。

『科学する麻雀』というタイトルで想像できると思いますが、この人は「麻雀に流れなんてない」という立場です。そういう、一見バリバリの合理論者、麻雀戦術書に数式が飛びかっているような人が、なぜこんなことを書くのでしょうか。

私はこんなふうに思います。意味づけをする、物語をつくることは、対象が「ムダなもの」であればあるほど楽しいのです。彼は、いわゆる「流れ」という凡庸な物語では満足できず、麻雀を使った、もっと豊かな物語をつくろうとしたのだ、と。

要するに、我々が「生きる」というのは、つまるところ「物語をつくる」ということなのではないでしょうか。だから、冒頭に引用した文章で中村光夫は、賭博の魅力を「煮つめられた人生」「充実した生の感覚」と呼んだのだろうと思います。そういう意味では、ランダムな配列に「流れ」を読んでしまう、というのは、人間の一つのいとおしさではないかと、私には思われます。

井の中の蛙は大海を知る、水のめぐる星、どこかに井戸を隠してるから

「井の中のかわず、大海を知らず」という有名なことわざがありますね。このカエル君が、私は可哀想でなりません。みんな、分かっちゃいないんです! 今日は、井の中の蛙は、大海を知ることができる、ということを考えます。

英語から輸入され、日本でも定着していることわざに、「木を見て森を見ず」というのがあります。あるいは「井の中の蛙、大海を知らず」ともいいます。細部にこだわって見当をつけられない愚かな状態のことを笑っているのです。部分的な、狭い知識だけでは全体がどうなっているのかは判断できません。大きな立場から見ると、それまで見えていなかったことが見え、わからないこともわかるようになります。

山鳥重「『わかる』とはどういうことか」より

上記の文章は、手元の入試問題データを「蛙」でちょこっと検索したら出てきたものです。ここに登場する「井の中の蛙」。彼はおそらく、松尾芭蕉の「古池に飛び込む蛙」とならんで、日本人になじみ深いカエルでありましょう。しかし、なんと可哀想なカエルなのでしょうか!

この「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉の出典は、『荘子』の秋水編であるとされています。『荘子』が書かれたのは紀元前ですから、このカエルは、かれこれ2000年以上も、愚か者の代名詞とされてきたのです。

ところで、最近の日本では、このカエルの再評価が始まっているようです。検索エンジンで「井の中の蛙 大海を知らず」を検索してみますと、どうもみなさん同じ話をしていらっしゃいます。それは、このことわざには続きがある、というのですね。

読んでみますと、「井の中の蛙、大海を知らず」に続いて、「されど、空の青さを知る」あるいは「されど、空の深さを知る」などの言葉が付け足されています。なるほどー、なかなか心打つ言葉じゃありませんか。

しかしですね、みなさん。こういうのは普通、「負け惜しみ」といいませんか。

それは言い過ぎにしても、この言葉、万人の救いになる言葉ではないでしょう。「井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の深さを知る」という言葉の真意は、深い井戸が掘れて、その底に降り立つことができたものだけが「空の深さ」を知ることができる、ということではないでしょうか。なんで、みなさん、自分が「深い井戸の底」に降りられることを疑わないのでしょうか? まさか、井戸はもう既に掘ってあって、あとは飛び込むだけだ、なんて思ってらっしゃるんじゃないでしょうね。

あまつさえ、自分がもう「空の深さ」を知っているようなことを言う人までいますが、それは本物の「深い空」ですか? ちなみに、深い井戸の中から空を見ると、太陽の散乱光の影響がなくなるので、昼間でも星が見えるんですけど。星、見えてます? みんなと同じ空しか見えないのであれば、井戸の深さが足りないと思いますよ。

というかですね、実はこっからが本題なのですが、そもそも、なんで、みなさんは、「井の中の蛙は大海を知らない」と決めつけて話をしているのでしょうか? 井戸の中にいるのだから当たり前? ちっちっ、そこが思い込みだというのです。

よろしいか、井の中の蛙だって、大海ぐらい知ってるんですよ!

あ、今、「何言ってんだコイツ馬鹿じゃねーか」、と思いましたよね。いや、思った。まあ、いいでしょう。ここはひとつ私の話を聞いていただこうじゃないですか。証明してみせますよ。井の中の蛙も大海を知っている、ということを!

それでは、ルールを決めましょう。私は、今から井戸の中の一匹のカエルになります。そして、井戸の中で観察できることのみを材料に、合理的な推理でもって、「大海」の存在を結論します。はたして、そんなことが可能なのか。

可能なんです。

では、始めましょう。いきますよ、みなさん、深く、深い――井戸の中へ。

さて、井戸の中。ここはどのような世界なのでしょうか。もちろん、水がたまっています。私はその中を泳ぐ一匹のカエルです。私には、何が見えているのでしょうか。

まず、天井からは光が差し込んでいます。太陽や月が見えるかどうかは分かりませんが、時間によって明るさが変化することは分かります。また、雨がふるのも分かります。鳥が飛ぶのも見えます。また、水をくむための釣瓶つるべがあるものとします。

もちろん、たいがいの井戸というのはフタをされてるものですが、さすがにそんなことをされますと、「されど、空の青さを知る」ことすらできません。ここは、井戸にはフタがないものと仮定させていただいても、かまわないでしょう。

カエルである私は、まず「空の高さ」に気づきます。井戸のふちに留まる鳥が、空を飛ぶときあんなに小さく見えること、そのさらに上に雲があること、さらに上に星々があること。どうやら、世界が上にずーっと続いているらしいことは、分かります。

雨がふります。井戸の水位はどう変わるでしょうか。地面にじわじわとしみこんだ水が井戸の水位を上げるまでには、数日以上かかります。私は、じきに、雨と井戸水位の関係に気づきます。空から降った雨水は、この井戸の中にすぐ流れ込んでくるわけではない。しばらく、どこかにたまっているらしい。どうやら、この世界は、上だけでなく、前後左右にも広がっているようです。

私は、太陽光の動きを観察します。影のできかたを観察して、光が直進していることに気づきます。あの強い光は、どうやら朝と夕には、ほとんど横から差し込んでくるようです。しかし、光の強さはそんなに変わらない。むしろ、朝夕のほうが弱いぐらい。したがって、光源から井戸までの距離が短くなっている、ということはなさそうだ。つまり、あの光を出している物体は、朝夕には、はるか遠くから、横方向に光を照らしているわけだ。ということは、この世界はかなり広いに違いない。

さて、世界の広さが分かったところで、今度は、水について考えましょう。空からふる雨水は、いったいどこから来ているのだろうか?

空から無限に水が湧いて出てくるのでしょうか? しかし、だとすれば、いつか地上は水びたしになってしまうのではないか? ならば、そこには「大海」が発生するはずだ。

こう結論してしまっては、もはや「大海を知らない蛙」とは言えません。そこで、私は、こう考えます。地上に落ちた水は、どこかに消えてなくなるはずだ。しかし、この井戸の中に水がこんこんと湧いて出てきているところを見ると、雨水が無限に下へ下へと落ちていくことはないのだろう。では、いったい、水はどこへ行くのか?

そこでは、私は、世界をよく観察します。そして、釣瓶に入った水が、時間とともに減っていくことに気づきます。また、水面から顔を出していると、自分の体の表面が乾燥していくことにも。どうやら、水は少しずつ空気中に逃げているらしい。

なるほど、これなら、つじつまが合う。地上に落ちた水は、空気中に蒸発し、それが再び雨となって、落ちるのだ。

水の循環。実は、ここに突破口があるのです。

陸地と海では、どちらが水の蒸発量が多いでしょうか。言うまでもなく海です。ところで、地球全体の水の循環を考えると、雨になって降ってくる水と、蒸発して雲になる水の量は、つり合っていなければなりません。ということは、陸地では蒸発量より降水量が多く、海では降水量より蒸発量が多い、ということになります。

実際は、海のほうが同じ面積あたりの雨の量が多いので、ちょっと話がややこしいのですが、実際に推定されている水の循環量で見てみます。岩波地球惑星科学講座『地球システム科学』によると、陸上では、降水107に対して蒸発71。海上では、降水398に対して、蒸発434です(単位は、10万kg/年)。だいじょぶそうです。

ここで、再び井戸の中に戻りましょう。カエルである私は、この降水量と蒸発量の関係に気づくことができるでしょうか? まずは、釣瓶の中に雨水を入れて放置してみます。すると、次の雨が降る前に中の水が乾燥してしまう確率が高いようです。「水びたしの世界」では、蒸発量のほうが大きいからです。

では、陸地の蒸発量は分かるでしょうか。井戸の壁を観察してもよさそうですが、推理でも分かります。井戸のまわりに降った雨は、土の中にしみこんでいたのでした。ということは、当然、その分蒸発量は減っているはずです。「陸の世界」では、蒸発量は降水量より少なくなることが分かります。

カエルは考えます。ということは、世界がもしすべて「陸の世界」であるならば、蒸発量より降水量のほうが大きくなってしまう。これでは雨水がどこから来るかが説明できない。ということは、世界には、「陸の世界」だけでなく、「水の世界」が存在して、降水量と蒸発量のバランスをとっているはずだ。

つまり、この世界には、でかい「水の世界」がなくてはならない!

では、いったいその「水の世界」はどのぐらいの大きさになるのか? これは、カエル君が、井戸の中で、降水量と蒸発量について、どれだけ正確な観測を行えるかによって変わってきます。仮にカエル君が上記の『地球システム科学』どおりの観測結果を得たとしましょう。

ただし、カエル君には、陸地と海面での降水量の違い、ということは分からないでしょう。そこで、海面降水量も陸地降水量と同じであると仮定して計算をします。これですと、海の面積は、現実のそれよりだいぶ小さくなります。計算は省きますが、カエル君は、次の結論に到達するはずです。世界の面積の約3分の1が海である、と。本当は、海はもっと大きいんですが。

しかし、これでも十分ではないでしょうか。

よろしいですか、カエル君は、「この世界の少なくとも3分の1以上は水の世界である」ということを推論することができたのです。それも、井戸の中での観察結果のみを用いて!

もちろん、井戸の中は日光が直射しませんから、蒸発量などはかなり外の世界とは違うでしょう。カエル君が正確な観測結果を手に入れるのは大変です。しかし、観測結果にちょっとぐらい誤差があっても大した問題ではありません。「この世界には、大きな水の世界があるはずだ」という結論は、ゆるがないでしょう。

さて、みなさん、いかがでしょうか。私から、まず一言、言わせてください。

あやまれ! みんな、カエル君にあやまれ!

井戸の中にいるから大海を知らないだろうなんて、なんと浅はかな決めつけですか。カエルをなめんなよ、と。カエルだって地球侵略しちゃう時代なんですよ! 大海ぐらい知ってるっつーの! わははは、ざまあみやがれ!

とりあえず、みなさん、井戸の中にいるのだから大海なんか分からなくて当然だ、という思考はもうやめましょうや。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」と言ったのは星の王子さまでしたが、私たちは、その井戸の中にいるのです。もったいないです。

「されど、空の青さを知る」。これは素敵な言葉です。それは認めます。私だって、井の中の蛙です。でもね、みなさん、空ばかり見上げてても面白くないですよ。だって、私たちがいる井戸の中は、こんなにも面白い世界なのですから。

無限の時間を取り出せないか、オメガ・ポイント、確実な「死」を

我々の人生は有限に決まってますが、しかし、ここから無限の時間を取り出すことはできないものでしょうか? 今日は、人間にとって時間とは何か? そして、永遠の生を得るために必要なものについて考えます。

  去年今年こぞことし貫く棒の如きもの   虚子

 子どものころは、一年がもっと長かったように思うが、最近は、年のたつのがずいぶん早いように感じる。ここ数年、年末からお正月にかけて静かにものを考える時間に恵まれると、私の思いは、どうも過ぎていく時間にとらわれてしまうようだ。そんな場合、心の中で私が向き合っているのは冒頭の祖父の句である。
 去年、今年といっても何も変わったわけでもない。ただいつもとおなじ時間の経過があっただけなのに、人は連続した時間に区切りをつけて新しい意味をもたせる。しかし、いくら区切ってみてもそれは棒の如きもので貫かれた断つことの出来ない時間である。このようにずばりといわれると、普段、仕事に追われて惰性で時を過ごしている私は、はっと胸をつかれるのである。(中略)
 人は、時間の中を旅する旅人であるが、旅人にとって、体験する時間は決して均質に経過するものではない。意味ある時間を多く過ごした人ほど、より善く、より長く生きてきたことになるのではなかろうか。時間という旅人と、その中を旅する人の出会いは、まさに一期一会である。
  わが果てぬ旅路なるべし去年今年  汀子

稲畑汀子の文章より

俳人高浜虚子の孫娘である稲畑汀子が、祖父の句について語った文章です。

稲畑汀子が書くように、この「貫く棒の如きもの」とは、人間がいかに区切ろうとも断つことのできぬ時間の連続性と解釈されるのが一般的です。

大岡信は『折々のうた』の中で、この句について「新春だけに限らず、去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうたう。」と評しています。

外務大臣麻生太郎が、「靖国に弥栄(いやさか)あれ」と題された文章の中で、この句を引用していました。麻生は、靖国にあるのは「日本人の『集合的記憶』」であり、それをむげにすることは、「日本という国が、自分を見失」うことにつながると書いています。そういう、死者にまつわる「一切合財を含む記憶の集積」を、彼は「棒の如きもの」とたとえたのです。

さて、私は、こうも思います。この句は、「時間」という連続したものであっても、人間は、「去年今年」という区切りの中でしか認識することができない、ということを言っているのではないか、と。

例えば、この句を「時間とは貫く棒の如きもの」としたら、何がなんだか分かりません。「貫く」とは「こちら側から反対側まで突き通る」(大辞泉)ことなのであって、そもそも何らかの「区切り」があって、初めて意味をもつ言葉だからです。

すなわち、連続する時間というものがまず存在して、それを人間が区切るのではなく、「区切り」というものがまずあって、初めて「時間」というものを人間は認識できるのではないか。そして、その「区切られた時間」というものこそ、人間にとって正しく時間の姿なのであって、過去へ未来へと永続する時間というものは虚構なのではないか。

ところで、みなさんは「初頭効果」「終末効果」という言葉をご存じでしょうか? ある決められた時間内で作業をするとき、開始直後と終了直前に生産性が上がる、という現象です。

いきなりショボイ話になりますが、この、時間を区切ることで生産性を上げるというメソッドは、自己啓発関係ではけっこう有名なものだと思います。私は、この手の話が大好物なので、ちょっと思いつくまま例を挙げます。

野口悠紀雄続「超」整理法・時間編』では、「自分で期限を切る」こと、例えば「他人と約束をすること」で、時間を無為に過ごすことがなくなると説きます。池谷裕二海馬―脳は疲れない』では、1時間の作業をやるとき、30分が2回あると思うことで能率が上がると指摘します。吉田たかよし脳を活かす! 必勝の時間攻略法』では、15分ずつに区切ってタイマーで計ることで時間を認識しやすくなると述べます(筆者は「角砂糖効果」呼んでいます)。

まだいくらでも挙げられますが、このように区切りを入れることで生産性を挙げる、という手法が存在することは、人間の時間認識のしかたについて、何かのヒントになるように思います。

もっとも、「終末効果」という言葉を単純にうのみにすることはできないと、私は思います。例えば、Googleで"終末効果"を検索して出てくる200件ほどのページすべてにざっと目を通しましたが、この効果に関する定量化された根拠を見つけることはできませんでした。

だいたい、単に「時間を区切れば終了直前に生産性が上がる」のであれば、夜寝る直前にバリバリ活動することになってしまいます。それに極端な話、この理屈でいけば時間を1分ずつ区切って仕事をすれば、めちゃくちゃ生産性が上がるわけですが、そんなことないですよね。

どうやら、単に時間を区切ればいいというものではない。その「区切り」には、ある条件が必要なのではないか、と。

ずばっと、私の考えを書けば、必要なのは「死」です。その先に、「死」があること。

ラインホルト・メスナーナンガ・パルバート単独行』に、興味深い記述があります。登山中に崖から転落して、奇跡的に生還した人間の主観的意識についての記述です。

「まず痛みを感じない」「不安も絶望も苦痛もない」「思考活動は非常に活発で、頭の回転の速さは平常の数百倍にも達する」「客観的時間が主観的にはずっと長く引き延ばされている」「電撃のごとく行動し、正しく熟考している」「判断はあくまで明確に客観性を維持し」「電光石火のごとき行動をとることができる」

さて、いったい何が起きているのでしょうか? 例えば、転落時の痛みを感じない、ということを生理学的にどう説明すればいいのでしょうか。βエンドルフィンなどの脳内麻薬が分泌された? しかし、脊髄に直接これらの物質を注入しても、効果が出るのに1分はかかるそうなんですけど。また、現在知られている脳内物質では、このような思考速度の加速が説明できるとは思えません。

ならば、人間には、もともとそれだけの力がある。そう考えるしかないでしょう。

この話は、物理学者フランク・ティプラーの「オメガ・ポイント」を思い出させます。オメガ・ポイントとは、ここでは、宇宙がビッグクランチ(ビッグバンの反対で、宇宙が1点に収縮すること)で終わるとした場合、その時空の最後の1点を言います。

Wikipediaの「宇宙の終焉」の項から引用しますが、ティプラーは、オメガ・ポイントにおいて、「ビッククランチから膨大なエネルギーを取り出し、終末が近づく以上に、生命活動をクロックアップし、有限の残り時間から無限の主観時間を取り出す」可能性に言及しています。

クロックアップ」というのは、例えば、こういうことです。最初の半年で主観時間を2倍にする。すると、次の半年が、1年間に感じられる。で、その1年間のうち半年を使って、再び主観時間を2倍にする。すると、次の3ヶ月が1年間に感じられる……。これを続けていけば、わずか1年が、永遠へ変わります。

もちろん、このクロックアップは、現状の人間の脳では、ハードウェアの制約上、難しいと考えられます。ですから、ティプラーは、計算機内のシミュレーション内の生命体が、現実と同じ意識をもつ、との仮定の上で話しています。また、最新の観測結果によれば、おそらく宇宙は、ビッグクランチで終わらないだろうとも言われています。そのへん、実現可能性は厳しい感じです。

しかし、なんとも魅力的な考えです。有限の時間から、無限の時間を取り出す!

まあ、ここまで強烈なものではなくとも、〆切直前に力を発揮する、なんてのは、我々の日常茶飯事です。この力は、単に時間を区切るから発揮できるのではない。区切られた時間の向こうが、ある意味「死」にあたるものだからこそでしょう。その時点に達したら、自分の何かが「終わる」という感覚が大事だということです。

というわけで、問題は、いかにして、我々は日常に「死」をとり入れるか、ということになりました。それも、不確定な未来の「死」、キャンセルできる曖昧な「死」ではなく、確定した、ある1点に待ち受ける確実な「死」を、です。

冒頭に引用した文章で、稲畑汀子は、人が体験する時間は決して均質ではない、と指摘しています。その通りでしょう。では、「より善く、より長く生きて」いくためには、いったい何が必要なのか。それが、確実な「死」ではないか。

もっと普通の言葉を使えば「死ぬ気でやれ」。あらら、ずいぶん凡庸な結論ですな。というわけで、「死ぬ気でやれば、なんでもできる」っていうのは、イイスギではなくて、論理的に、文字通り、真実なのかもしれないよ、ということを、今回の結論にしたいと思います。だって、死を前にした我々には、無限の時間があるのですから。

なぜのび太は失敗するのか、永遠の夏休み、世界の平和を守るため

ドラえもんと言えば、たいてい最後はのび太が道具の使い方に失敗して終わります。ところが我々は、なぜかその結末に満足しているのです。今日は、どうしてのび太は秘密道具をうまく使わないのかについて考えます。

 しかし、「ドラえもん」には見逃してはならない、もう一つの重要な視点があるべきだと思うのだ。……子供のみならず大人にまで夢を与えた……本当にそうであろうか。私の知る限りでは「ドラえもん」の夢は一度もかなわなかった。次から次へと"四次元ポケット"から出てくる奇想天外な科学の小道具は、難問を解決してくれるどころか思惑に反して勝手に暴れだし、思いがけない新たな問題を引き起こしてしまうのが常である。それがギャグのメーンにはなってはいるが、そこにはただ笑ってはすまされない問題がある。(中略)
 現代の日常生活は科学文明を過信するあまり、科学に対する基本的な姿勢を忘れ去ってしまっている。便利という言葉に浮かされて、出来合いの科学を大量に買い込んで、これでもかという失敗を繰り返しても、実に平気なのである。それはまるで「のび太」の生活そのものである。
 楽することを求めるあまり、科学のなんたるかを忘れて暮らす現代の生活のあり方に浴びせた作者の皮肉な笑い。「ドラえもん」の真の面白さは、我々の日常への痛烈な風刺にあったのだ。

朝日新聞平成八年十月三日 福島憲成の文章より

朝日新聞からの引用です。実に興味深い文章ですね。まず問題設定が実に秀逸です。「ドラえもんの夢は一度もかなわなかった」。言われてみれば、その通りです。いったいなぜドラえもんの道具は役に立たないのか? これは考える価値のある問題ではないでしょうか?

福島憲成は、この問題に対して「科学に対する基本的な姿勢を忘れて暮らす我々の日常への痛烈な風刺」である、と解答します。うーん、そうなんでしょうか。この答えは、なんつうか、いかにも朝日新聞です。どんな素材から出発しても最後には自分が言いたかった内容にもっていく力技。これはこれでホレボレいたしますが、しかしなんだか腑に落ちないところです。

仮にですよ、もし「ドラえもん」という作品が、日常への「痛烈な風刺」「皮肉な笑い」であるなら、藤子・F・不二雄先生の狙いは失敗したと言わざるをえません。なぜなら、我々は「ドラえもん」の道具が何の役にも立たず終わる結末に、いつも満足していたのですから。

そうです。我々は、「ドラえもん」の、あの役立たずの道具たちが大好きなのです! この問題を解くためには、そこからスタートしなければなりません。

ところで、「ドラえもんってどんな作品だっけ?」などと首をかしげている非国民は、まさかいらっしゃらないでしょうね。そういう罪深い方は、「のび太VSドラえもん」や、「ドラえも」(Wikipediaによる解説)をご覧いただき、記憶を再生しておくべきです。こんな話ですよ。思い出しましたか?

さて、ドラえもんの道具は役に立たない、と私は書きましたが、正確に言えば、その責任のほとんどはのび太に帰すべきものでしょう。実際、ドラえもんの道具は非常に強力です。みなさんも子供の頃、一度は話のネタにしたことがあるでしょう。ドラえもんの道具があれば、どんなにとんでもないことができるか、と。

にもかかわらず、のび太のバカチンがわけのわからん道具の使い方をするものだから、いつも最後は失敗に終わるのです。いったい、あの野郎は何を考えているのか。どこでもドアがあれば、要人暗殺だろうと、銀行強盗だろうと思いのままだというのに、しずかちゃんのフロ覗いてる場合じゃないだろうが!

つまるところ、問題は次のようになります。なぜ、のび太は、ドラえもんの道具をうまく使えないのか?

馬鹿だから、という答えは非常に身もふたもなく正論なのですが、しかしみなさん、のび太が100点をとったテストを見てください。これは普通の小学4年生(原作設定)の解ける問題ではありません。「大長編ドラえもん」などでの活躍を見ても、のび太はそこそこの頭脳はもっているというべきです。

ドラえもんは一話完結だったから、その回で出てきた道具はその回で役目を終える必要があるのさ、というメタにかまえた議論もあるでしょうが、これは本末が転倒しております。道具が1回限りしか役に立たなかったからこそ、ドラえもんは1話完結なのです。

マニアな方々は「なんでもひきうけ会社」の巻を指摘するかもしれません。この巻によると、秘密道具を金儲けに使うと多大な罰金が科せられる、という設定が実はあるのでした。しかし、この設定は人口に膾炙しているとは言えません。また、ドラえもん自身、秘密道具を金儲けに使ったことがあります。ならば、ドラえもんという物語上、「秘密道具を効果的に使ってはならない」という歯止めはほとんど存在していないと言えます。

それなのに、のび太は秘密道具を役立てようとしません。いや、むしろ、わざとつまらない使い方をして、わざと失敗しているとすら思えます。そして、それを見て満足する我々! いったい、どうなっているのでしょうか。

ここで視点を変えて、他の人気番組と比較してみます。ドラえもんの連載が始まったのは、1969年。その3年前に放送されたのがウルトラマンでした。

ウルトラマンの行動原理は非常に明確です。それは古今東西のヒーローたちと同じく、悪を倒すことであります。では、なぜヒーローたちは悪を倒すのか? それは、やはり「世界の平和を守るため」でありましょう。では、「平和」とは何か? 広辞苑には「平和」の定義として「おだやかで変りのないこと」とあります。

ここで、私は、はたと気づくのです。ドラえもんの道具が、その真の力を発揮した場合、世界に何が起きるのかを。そして、のび太がなぜいつも失敗していたのかを。

そう、のび太は、世界の平和を守っていたのです!

ドラえもんの道具があれば、単機で世界を破滅させるに足るでしょう。あの道具たちは、本気で使われてはいけないのです。ですから、のび太はあえて失敗する。彼もまた、「平和を守る、子供たちのヒーロー」だったのです!

ここで、大長編ドラえもんを思い出してください。普段の1話読み切りの話に比べて、明らかに道具が役に立つ確率が高いと思いませんか。その理由は明白です。大長編ドラえもんには、ちゃんと「ラスボス」がいるからですね。

こうなると、我々がドラえもんの世界に満足する理由は、もはや明らかです。それは、「今日も世界の平和が守られた」という安堵感に他なりません!

子供にとって、この素晴らしい世界がいつまでも続いていく、ということこそが最高の「夢」なのではないでしょうか。あの、永遠に続くかのように思われた夏休み。自分が大人になる日なんて無限の彼方のように感じていた日々。そんな世界を守ってくれるヒーローたち。そうです。のび太は、やはり子供たちのヒーローなのです。

靖国神社と囚人のジレンマ、主人と奴隷の戦略、自分の為に生きること

囚人のジレンマ

囚人のジレンマ」というゲームでは、「しっぺ返し戦略」や「パブロフ戦略」など「協調的」な戦略が有利であることはよく知られています。ところが、2004年に行われた大会で優勝したのは、まったく異なる戦略でした。今日は、世界をもうちょいマシにする方法を考えます。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

俵万智サラダ記念日』より

理屈ぬきで共感できる歌ですね。個人的に、俵万智の歌の中でも最も好きな歌の一つです。

さて、今日は、まず次のような主張から始めたいと思います。すなわち、この歌で行われているような、相手のアクションをただ「オウム返し」するだけのコミュニケーションは、対人関係において非常に有効である。いや、そればかりか、「最強」の戦略である、と。

何を言ってるんだお前は、「最強」とかいう問題なのか? という感じですけど、まずは、この主張を「囚人のジレンマ」というモデルを使って考えてみたいと思います。この時点で、「あー、はいはい」という人もいらっしゃると思いますが、うん、まあ、ご想像通りの話なんですけど、一応最後まで読んでくれると嬉しいです。たぶん、あんまり知られていない話もしますんで。

さて、「囚人のジレンマ」については、Wikipediaに解説がありますが、一応簡単に紹介しておきます。

まず、「囚人のジレンマ」は2人で行うゲームです。あなたと対戦相手は、「協調」と書かれたカードと「裏切り」と書かれたカードを、それぞれ1枚ずつもっています。んで、「いっせーの!」でどちらかのカードを場に出します。カードの出方によって、あなたと相手にそれぞれ得点が入ります。

右上の画像が得点表です。細かい数字には、あまり意味がありません。大ざっぱに言うと、次のような感じになります。

  • 2人とも「協調」カードを出したときは、2人とも得をする。
  • 一方が「協調」したのに、もう一方が「裏切り」だと、裏切った方は大きく得をするが、裏切られた方は大損する。
  • 両方とも「裏切り」だと、2人とも損。

こういう設定は日常生活でも実によくあるかと思います。例えば、2国間関係で、「協調」を「軍縮」、「裏切り」を「軍拡」で考えてみれば分かるでしょう。軍事バランスが崩れれば、戦力の強いほうが圧倒的に有利ですが、だからといってお互いに軍拡競争やってたら、軍事費がかかって仕方がない、みたいな感じです。

で、このゲーム、いったい何が面白いのか? まず、このゲームを1回だけ行うとして、どういう戦略が有利か考えてみます。結論は簡単です。「裏切り」ですね。だって、相手がどっちのカードを出したとしても、自分は「裏切り」を選択したほうが得なんですから、考えるまでもありません。人を見たら泥棒と思え、渡る世界は鬼ばかり、ですよ。

では、このゲームをくり返し行って得点を競うことを考えます。そのときも、やっぱり裏切りまくったほうが有利なのでしょうか? そうではありません。「裏切り戦略」は、1対1の勝負では絶対に負けることはありませんが、総合得点が伸びないんですね。

アクセルロッドという研究者は、世界中のゲーム理論の研究者たちからさまざまな戦略を募集して、この囚人のジレンマを闘わせるイベントを行いました。ネタに困ったら天下一武道会の法則です(違います)。2度、大会が行われ、なんと2回とも同じ戦略が優勝しました。社会心理学者ラパポートの考えた「しっぺ返し戦略」です。

「しっぺ返し戦略」は驚くほどシンプルな戦略です。それは、次のようなルールに従います。

  • まず、1手目は「協調」を出せ。
  • 2手目以降は、相手が直前に出した手と同じものを出せ。

要するに、「寒いね」と話しかけられたら「寒いね」と答えろ、という戦略です。そんなんでいいのかよ! という感じですが、実際そんなんが優勝しちまったわけです。

この戦略の行動パターンは、現実の人間関係においても非常に示唆的です。まず、最初は協調せよ。相手が協調している限り、自分から裏切るな。相手が裏切ったら、即座に報復せよ。でも、相手が反省して協調してきたら、直ちに許せ。

ここで、「しっぺ返し戦略」はその名に反して、非常に「協調的」な戦略であるということに注意してください。

さてさて、この囚人のジレンマを、より現実に近づけてみます。「協調」カードを出しても、一定の確率で「裏切り」カードに変わってしまう、というルールをつけてみましょう。要するに、メッセージが「誤解」されちゃう場合です。自分では「君のその服、とてもにあうよ」と言ったつもりなのに、いつのまにか「君のその服、とてもにおうよ」とかに変わってるわけです。恐ろしい世界です。

この世界では、しっぺ返し戦略は最強ではありません。なぜかというと、しっぺ返し戦略同士の戦いで、いったん「誤解」が発生して「裏切り」カードが場に出てしまったとたん、相手が報復→それに対して自分が報復→それに対して相手が……という報復の連鎖が起こり、得点が落ちるからです。

ここで登場するのが「パブロフ戦略」です。パブロフ戦略は、直前の戦略がうまくいっているならそれをくり返し、うまくいっていないなら反対の戦略に変える、というものです。具体的には、お互いに「協調」、あるいはお互いに「裏切り」だったときは、次の手は「協調」になり、そうでないときは「裏切り」を出します。たぶん、ほとんどの人が今の説明を読みとばしたと思います。確かになんだかよく分かりません。具体的に考えてみます。

パブロフ戦略同士の戦いで、「誤解」が発生したとします。場には「協調」カードと「裏切り」カードが出ている状態です。その次の手がどうなるか考えてみましょう。「協調」カードを出したほうは、相手に出し抜かれたかたちですから、作戦を変えます。ですから次は「裏切り」。一方、「裏切り」カードを出した(正しくは、出てしまった)ほうは、とりあえずうまくいったので、この作戦を続けます。次も「裏切り」です。

というわけで、次の手は「裏切り」対「裏切り」です。ダメじゃん、という感じですが、さらに次を考えてみます。

パブロフ戦略では、「裏切り」対「裏切り」になった場合、「うまくいっていない」と判断して、手を変えるのです。すなわち、次の手はお互いに「協調」です。要するに、速攻で仲直りできる戦略なんですね。

というわけで、誤解が発生する状況では、「パブロフ戦略」は「しっぺ返し戦略」より強くなります。しかし、考えてみると、これは驚異的です。例えば、「パブロフ戦略」対「常に裏切り戦略」の戦いを考えてみてください。少し考えれば分かりますが、パブロフのほうが「協調」と「裏切り」を交互に出す戦いになりますよね。ボロ負けです。

パブロフ戦略は、どんなに状況が悪化しても「仲直りしましょ?」と呼びかける戦略なのですが、それが通じない相手(例えば「常に裏切り戦略」)には、まったく勝てません。ところが、そんなお人好しの戦略が最強なのです。

実は、しっぺ返し戦略も似たようなものなのです。彼らは、1対1の戦いではほとんど勝てません。ところが、どちらも非常に協調的な戦略なので、相手に花をもたせつつ、自分もしっかり得点を稼ぎます。よって、トータルの得点では、最強になってしまうのです。

これは現実世界に応用したとき非常に教訓的な話です。例えば、国際関係においては、1国対1国の利害では多少損をしたとしても、協調的な戦略をとったほうが、多国間関係においては有利であるかもしれない、ということです。

私が、この話題を書くきっかけになったのは、数日前に、小泉首相が「終戦記念日靖国参拝」というカードを切ったことです。調べてみると、「靖国問題」に「囚人のジレンマ」を応用して考える、というのは、既に去年の参拝のときに「木走日記」さんが「世にも不思議な「靖国のジレンマ」〜ゲーム理論からの一考察」というエントリを書いて行っていました、さすがという他ありません。このエントリはコメント欄も含めて読みごたえがあります。*1

ただし、現実世界にゲームの理論を応用するのは簡単ではありません。例えば、靖国問題において「協調」カードは何なのでしょうか? 日本の場合は、「靖国参拝をやめること」なのでしょうか? では、中国の「協調」カードは? 「靖国参拝に文句を言わないこと」なのだとしたら、この設定では、協調カードを同時に場に出すことができなくなってしまいます。

それはともかく、しっぺ返し戦略や、パブロフ戦略といった「協調的」な戦略が「囚人のジレンマ」というゲームにおけるある意味「最強」の戦略(きちんと言うと、ナッシュ均衡解)である、ということは、数学的にきちんと証明されています(フォーク定理)。

さて、ここで話が終われば、ラブ&ピース、人類みな兄弟!という感じで、非常にめでたいのですが、しかし、実は本題はここからです。

2004年の10月に「囚人のジレンマ」誕生20周年を記念して大会が行われました。そこで、優勝したのは、なんと「しっぺ返し戦略」でも「パブロフ戦略」でもありませんでした。ニック・ジェニングズ教授の考えたまったく新しい戦略が優勝したのです。ネタに困ったら転校生の法則です(違います)。

その戦略を、とりあえず「主人と奴隷」戦略と名づけましょう(正式な名前ではありません)。この戦略はグループをつくることで初めて威力を発揮します。この「主人と奴隷」戦略に従って行動するグループは、「主人」を担当するプレイヤーと「奴隷」を担当するプレイヤーに役割を分担します。

彼らは、まずゲームの序盤に「協調」カードと「裏切り」カードを、モールス信号のようにある決まった順番で出すことで、対戦相手が自分と同じグループかどうかを識別します。そして、相手が自分の仲間ではない、敵であると判断した瞬間、「常に裏切り戦略」をとります。つまり、ヨソ者には徹底して敵対的な行動をとって、他人の足を引っぱるわけです。

では、対戦相手が同じグループだったらどうするのでしょうか。この作戦のポイントは、自分が「奴隷」で、相手が「主人」だった場合にあります。このとき、「奴隷」は「常に協調戦略」を、「主人」は「常に裏切り戦略」をとるのです。要するに主人は奴隷から搾取しまくるわけです。こうすると「奴隷」の得点はガタ落ちになりますが、それでかまわないのです。これは「主人」を優勝させるための戦略なのですから。

これは、自転車競技でいう「エース」と「アシスト」の関係によく似ています。自転車は空気抵抗が大きいため、集団の先頭を走るのは不利です。そこで、チーム内に「エース」と「アシスト」という役割分担を決め、「アシスト」たちが交代で先頭を走って「エース」をひっぱり、ゴール直前で体力を温存していた「エース」が飛び出すのです。

しかし、なんだかズルイ話です。「囚人のジレンマ」は出すカードによって得点が決まっていたわけですが、「奴隷」たちの行動はその得点を無視しています。彼らは、「主人を大会で優勝させる」という、まったく別の目標に向かってプレイをしているわけです。いわば、彼らがプレイしているのは「囚人のジレンマ」ではなく、別のゲームであるわけです。

実際、ネットで検索しても、この2004年大会の話題が出てくることは、ほとんどありません。一つには、上記のような「ズルイ」という感覚があるものと思われますが、私は、もう一つの理由もあると思います。それは、この作戦が「教育的」でない、ということです。

「しっぺ返し」戦略や「パブロフ戦略」の行動パターンは、非常に「教育的」です。まず協調せよ。相手をすぐ許せ。裏切りあう状況は打開せよ。うんうん、いいですねー。

ところが、この「主人と奴隷」戦略は、なんなんですかこれ、話になりません。こんなもの学校で教えられませんよ。「いいかい君たち、ガイジンを見たらすぐ殺しなさい。一人一殺!」とか「御主人様には絶対服従。これテスト出すよー」とか言ってるんですよ。まあ、強引に解釈すれば「チームワークの勝利」なのですが、あまりにも排他的な戦略です。

しかし、私は思うのですが、これもまた現実なのです。つまり、世の中には、「主人」のために自分を殺す連中もいるってことです。他人が見ると何を考えてるのかさっぱり分からないわけですが、ある特定のプレイヤーのために、自分の得点を無視して行動するやつがいる。まあ、各自の思想信条に従って適当に具体例を考えてください(中国と朝日新聞とか、ブッシュとコイズミとか)。

「主人と奴隷」戦略が優勝してしまった。私は、このことは事実として、ちゃんと考えなきゃいけないと思います。

オリジナルの「囚人のジレンマ」は、ある意味ものすごく利己的なゲームでした。それぞれのプレイヤーは自分の得点しか考えていませんでした。ところが、その条件のもとでは「協調的」な戦略が最強になったのです。

一方で、チームをつくって優勝を競う2004年大会では、「自分を捨てて他人のために尽くす」ことが優勝するための秘訣でした。ただし、この場合の「他人のため」の「他人」というのは、「自分と同じグループに所属する他人」ですけどね。で、結果として、「排他的」な戦略が最強になってしまいました。

なんとも逆説的な結果ですね!

私は、この結果には、世界がどうすれば今よりマシになるか、という問題の一つのヒントがあるように思います。幸福の総量(得点の合計値)は、明らかに「協調的」な戦略を取ったほうが大きくなります。「寒いね」と答える人のいるあたたかさ、です。では、その「あたたかさ」を手に入れるためには、いったんどんなルールが必要なのか……。

とはいえ、それについて具体的に考えるには、ちょっと力が尽きました。今日はここまでとして、いったんキーボードから離れたいと思います。

*1:ただし、木走日記さんのエントリは「パレート最適」という言葉の使い方が少し不適切です。「囚人のジレンマ」における「パレート最適」は「協調-協調」だけではありません。「協調-裏切り」「裏切り-協調」も「パレート最適」です。誤解を招く書き方だと思います。